【記憶とは】
記憶が神経細胞と神経細胞の継ぎ目(シナプス)にあるという考えは100年ほど前にすでにタンツィーやカハールが提唱していた。しかし、シナプスには可塑性(柔軟性、可変性)があって、これが記憶の基礎過程であるという考えが実験データによって確立したのはここ20年ぐらいのことである。
記憶は脳内の特定の神経回路が繰り返し刺激を受け、機能的・形態的な変化を残すことで保持され、次に同じ刺激もしくは関連する刺激が入って来た時に、その回路が再び興奮することによって想起されると考えられている。機能的な変化は繰り返し刺激の直後から起こるシナプスの伝達効率の変化で、高頻度刺激後の長期増強(LTP)と低頻度刺激後の長期抑圧(LTD)とがある。これらの現象は大脳皮質、海馬、小脳などで数時間から数日、時には数週間持続することが観察されている。機能的な変化の後にはシナプスの結合数などの形態変化が起こると考えられる。これには軸索発芽によるシナプスの新生やシナプスの競合による不要なシナプスの選択的脱落がある。特定の神経回路で新しいシナプスが形成されシナプス数が増えれば、回路全体の伝達効率も増大する。このよう形態変化は前述のLTPよりゆっくりとした時間経過で起こり、LTPが消失した後も数年のレベルで持続するだろう。そして、機能的変化は記憶を短時間貯えるのに、形態変化は長時間貯えるのになんらかの役割を果たしていると考えられる。
LTPやLTDといった伝達効率の変化は短期記憶の優れたモデル系として確立しており、多くの研究者達によって重要な知見が得られてきた(小倉博士のホームページ参照)。しかし、長期記憶についてはまだ良いモデル系がなく、そのメカニズムは全くわかっていない。そこで、この長期記憶(記憶の固定)のメカニズムに迫るために、まず再現性の良いモデル系を確立することを試みることにした。
【長期記憶のモデル系】
長期記憶の神経基盤は繰り返し刺激後にゆっくりとした時間経過で起こる形態変化であると想定されているが、その現象を顕微鏡下で見てやろうというのが当面の目標である。LTPやLTDは急性切片や個体を用いた実験が専ら主流であるが、これらの標本は個々の細胞を観察するのには都合が悪い。そこで、比較的
vivo の神経回路を保存しており、かつ個々の神経細胞の観察が容易な切片培養を用いることにした。海馬の切片培養は急性切片のようにLTPやLTDを誘発させることができ、遺伝子の導入や薬物の処理後に長時間経過させて観察することも可能である。
ちなみに私は以前、体内時計の存在部位である視床下部視交叉上核の切片培養を行い、ペプチド(vasopressin)の分泌リズムを48時間にわたって観察し、この系で体内時計が動いていることを確認した。さらに、細胞のトポロジーが保たれているので標本の目的の部位への細工が容易にできることを示した。この時にもこの培養系が有望なin
vitroのモデル系となることを提唱した。
【ウイルスベクターによる神経細胞への外来遺伝子の導入と応用例】
切片培養下で神経細胞の形態変化をrealtimeで観察するためには、細胞を生体染色する必要がある。脂溶性蛍光色素の局所注入や水溶性蛍光色素の細胞内注入などを試みたが、現在はgreen
fluorescent protein(GFP)遺伝子を局所注入して、目的の細胞を緑色に光らせるという方法を取っている。この遺伝子の導入には組み換えアデノウイルスを用いている(詳細は後日報告する)。
神経細胞への外来遺伝子の導入は株細胞とは異なりリン酸カルシウム法などの化学的方法は毒性が強く困難である。最近は、様々な向神経性のウイルスベクターが開発されており、神経細胞への高効率の遺伝子導入が可能になってきた。中でも、組み換えアデノウイルスについては東大医科学研究所の斉藤博士らが精力的に作製法を開発されたおかげで、高力価のベクターの作製が容易に行えるようになった。
そこで、アデノウイルスベクターを用いた遺伝子導入の試みとして、βアミロイド蛋白の前駆体蛋白(APP)の遺伝子を培養神経細胞へ導入した(阪大蛋白質研究所の吉川博士と植月博士との共同研究)。βアミロイド蛋白はアルツハイマー病脳に蓄積する老人斑の主要蛋白で、膜蛋白のAPPが本来切断される部位とは異なる部位で切断されてできる短い断片である。βアミロイド蛋白についてはアルツハイマー病の原因となる可能性から精力的に研究が行われているが、全身の正常な細胞に発現しているAPPの機能についてはまだよく分かっていない。そこで、この蛋白の生理機能を解析する目的で、脳に多く発現しているAPP695の遺伝子をアデノウイルスベクターを用いてラット培養海馬神経細胞に導入した。ウイルスに感染してAPPを大量に発現している神経細胞と感染していない神経細胞について、グルタミン酸(TTXとニカルジピン存在下)に対する反応性を細胞内カルシウムの変化を指標に観察した。すると、ウイルス感染群では非感染群に比べて、有意にグルタミン酸に対する反応が大きくなっていることが分かった。しかし、ウイルスコントロールとして用いたβgal発現群と非発現群についてはそのような差は認められなかった。したがって、神経細胞に発現しているAPPはグルタミン酸受容体を直接あるい間接的に活性化している可能性がある。また、この差は同一皿中の感染細胞と非感染細胞の間で観察されたので、APPが正常に切断された分泌型APPの効果ではなく、膜中に結合している全長型APPの効果と考えられる。一方、50mM
KCl( TTX存在下)に対する反応には差がないことから、Caチャンネルは活性化していないと考えられる。
APPがグルタミン酸受容体を活性化しているのであれば、高濃度のグルタミン酸投与で過剰興奮させると死に至る海馬神経細胞では、APPはさらにその細胞死を促進するだろうし、グルタミン酸存在下のような恒常的な興奮下でしか生存できない小脳顆粒細胞ではAPPは生存を上昇させるだろう。そこで、海馬神経細胞と小脳顆粒細胞に培養下でAPP遺伝子を導入し、海馬神経細胞についてはグルタミン酸細胞死を小脳顆粒細胞についてはNMDA(グルタミン酸受容体のサブタイプの一つを活性化する物質)の生存維持効果を観察した。すると、APPを発現させると、海馬神経細胞のグルタミン酸細胞死は増悪し、小脳顆粒細胞のNMDAによる生存効果は増大した。これらの実験結果は、APPが神経細胞ではグルタミン酸受容体を活性化しているという仮説を支持するものである。
【今後の展望】
長期記憶のモデルとして活動依存的な形態変化を顕微鏡下で捉えようという試みは現在進行形で、この問題に決着をつけることが当面の目標である。もし、この現象が捉えられれば、それに関わる分子の探索へと研究を進めていきたい。
【参考文献】
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