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●071103 手術前、万一麻酔から覚めなかったときを考え、遺言を書こうかと考えた。最初に「平常心」と書こうとした。MSWordで「へいじょうしん」と入力したところ「屁以上心」と変換された。それで目が覚めた。なるほど、平常でない不穏な心は「屁以下」だということか。たしかに、たかががんの手術くらいで平静を失って遺言などと動揺するのは、屁以下なのかもしれぬ。というわけで、遺言はやめにした。
●071102 外来問診。病院の日本語というのは独特で、一種の方言である。会計窓口の呼び出しもその一つで、「XX番の方、Y番窓口にお越しください」の「お越しください」は標準語なら「低高高低高高低」と発音するところ、「低高高高高高高っ」と上に抜けて終わる。小田和正のように。これは阪大病院でも豊中市民病院でも川西市民病院でも同じ。総じてテンションが高い。水泳の泳者コース紹介で「第一のコース」を「高低低高低高ー低」でなく「高高高高高高ー高」」と呼ぶのに似ている。
●071101 会合で、先日食道を手術したY先生と話がはずむ。いや、病気の話というのは、一種の自慢話で、とめどなく続き、とめどなく楽しめるものですな。病棟の談話室でも、病状の重い人ほど上位に置かれる優雅なソサエティが自然に形成されていた。
●071031 術創の一部がまだ閉じない。へその1.5cm右にへそIIができて、そこに脂がたまっている。退院時に主治医のN先生から、「これは化膿ではなくてfat
necrosisです。すきやきで最初にジューって脂身を引くでしょ、あれです」と説明を受けたが、ガーゼを換えるたびに思い出しては笑う。よし、今晩はすきやきにしよう。
●071030 ひとまず退院。万博公園でコスモスを見て和む。プラタナス並木の巨大落ち葉と戯れる。午後、研究室に戻り、さっそく科学研究費の申請書を書く。明日が締め切り。入院中頭の中で構想を練っていたとはいえ、書いたのは半日足らず。こんな駆け込み申請で通ったらバチがあたるかもしれぬ。
入院するとき左手首につけたIDリストバンドを切ってもらう。あれ、サッカーファンが、これが切れたとき願がかなうというミサンガみたいだ。私の場合も、これが切れたとき、ガンがかなった。
●071029 ワールドシリーズを全試合全イニング生中継でみてしまった。世間の皆様がお働きになっている、お学びになっている朝9時半から昼1時という黄金の労働時間帯に、毎日ホゲーッとテレビを見ていた。懶惰にも程があろうというものだ。あまつさえ、毎日そのあと風呂に行ってしまった。懈怠の極みである。疏慵である。偸懦である。あーん、もっと叱って。うふーん、いけない私をもっと責めて。しかしもって、日の高いうちに風呂に入ると何でこんなに快感なのだろう、なんでこんなに嗜虐感に浸れるのだろう。
●071028 外出してもいい、といわれているので、午後外出する。向かいの生命の建物に行くような顔をして、実は豊中まで行く。日曜なのにもかかわらず、院生諸君が何人も来ていて、昼食を作っていた。普段の日曜にはないことで、これなら私が不在のほうが研究ははかどると、頼もしく思われる。待てよ、それでいいのか。
●071027 ゲップをすると痛い。咳をするともっと痛い。クシャミをするともっともっと痛い。手術以来咳をしないよう細心の努力を傾注し、まだ一度しかしていないというのに、あろうことか不覚にも本日午後4時40分ごろ、クシャミを一発してしまった。術創が全部開いたかという激痛が走って、15分ほど悶絶した。
●071026 病名をもらう。「濾胞性リンパ腫」。どんな病気なんだかよくわからないが「疑い」がとれて、一人前のがん患者になったのだから、ちょっと誇らしい。
おとといは給食をけなしたが、全体としてはとても秀逸である。とくに魚がいい。甘くなく塩辛くなく、素材の味が前面に出ていて最近のコンビ二食の正反対。サワラの照り焼きは、パサパサになりがちなところ、表をかりっと中をふんわり、上手に仕上げた。アマダイの煮付けは、味が煮汁に出てしまいがちなところ、よく閉じ込めている。
●071025 ガス出る。ブォーッと勢いよく出たりしない。腸の中にサイコロ状の塊が発生し、それがゴトゴト降りていって最後にブツッとはじける。そんな感じ。
今日すべてのチューブが取れる。見かけ上普通人に戻った。「傷フィルムは防水ですからお風呂にも入れますよ」といわれるが、お腹の小型原子炉が冷却水漏れを起こしそうで、やっぱりよしとく。そこでふと考えた。アトムの原子炉はやっぱり発生熱でタービンを回すのだろうか。柏崎刈羽原発6号炉は震度5で稼動停止に陥ったのに、アトムはあんなに激しく動いて事故対策は大丈夫なのだろうか。夜、便通始まる。
●071024 ガスが出ない。30分ごとに回ってくる看護婦さんが毎回聞く。表情がだんだん深刻になっていくようにもみえる。入院経験が乏しい私は、安手のテレビコメディなどで、主人公が入院して「ガスが出たあ」などと喜ぶのを、一種の誇張、下ネタジョークと思っていたが、そうでもないらしい。
チューブ2と4が取れる。ガスは出ないが、刺激のためにおかゆが始まる。驚いたことに、おかゆのおかずは牛肉だった。佃煮のようによほど柔らかく煮てあるのかというと、そんなことはない。しっかり硬い。
●071023 昨夕目を覚ますと、へその上に16cmの観音開きの扉が開かれ、19針のホチキスで留められていた。鉄腕アトムの胸に格納された小型原子炉のようだ。そのうえ、体中至る所にチューブが入っていた。サイボーグのようだ。えへん。
というのは無理な譬えで、4本の内訳は、1)背中に硬膜外麻酔カテーテル(エピという)、2)左腕には点滴カテーテル、3)右腹に腹水吸引管(ドレーンという)、4)ちんぽに導尿管(バルーンという)。1が一番かっこよく、細いチューブがさらに極細のステンレスのコイルで被覆されていて、サイボーグっぽい。4が一番かっこわるくて病気のじいさんくさい。4から1の順に抜けてほしいものだ。
ベッドサイドにバイオモニターがついていて、心電図、血圧、血液酸素飽和度(どうやって測ってるんだろう)、呼吸が描出されている。退屈なので、呼吸をいろいろ変えて変化をみることにした。ハッハッと切迫呼吸を続けると酸素飽和度が上がる。100%まで上げるとムカムカする。これが背泳の萩原智子がオリンピックでかかった過換気症候群だな。息こらえをするとどんどん下がって、90%を切るとアラームが鳴る。85%まで下げたところで、看護婦さんが飛んできてやめさせられた。そこで呼吸をコントロールすることにした。一つ深呼吸して、ゆっくり吐く。このときガタガタとではなく、滑らかな指数曲線を描くように吐くというゲームだ。これが案外難しい。1時間ほど練習してマスターしたところで疲労と痛みのため落眠。
●071022 昨晩から下剤のうえ、今朝から浣腸だ。体からうんこが抜けていくとともに私から力がぬけていく。ということは、何かい、私の力の源はうんこだったということかい。あとは全身麻酔でよくわからない。おやすみなさい。
●071021 午後から病室に戻り、パジャマに着替える。22ゲージのカテーテルを入れられる。薬はまだ何も入っていないのに、これですっかり病人らしい気分になり、廊下の歩調もゆったりゆったりになる。武術も芸事も型から入るが、型というのは大事なもので、気は型によって定まるのである。治療方針の説明を受ける。たくさんの承諾書にサインする。その中に、先生が、これは断っても全然構いませんが、というのがあった。生命機能からの、生検サンプルの一部をDNAチップ解析する承諾、というものだった。
●071020 何もすることがないので抜け出して病棟を歩き回る。あちこちに絵がかかっている。なかなかいいのもあるが、どうにも困るものも少なからず見られる。しばらく立ち停まっていると、同じような感想を多くの人が洩らす(小声で)のが聞かれるから、病院職員だってきっと同じように感じているに違いないのだが、外せない事情があるのだろう。教授が交代すると一斉に懸けかえられたりして。
●071019 このたび入院することになった。「悪性リンパ腫の疑い」の、「悪性」が取れるか「疑い」が取れるかを決めるのに、開腹手術を受けるのである。そこで入院日記をつけることにした。
病院の最上14階に展望レストランがある。リーガロイヤルホテル系列だという。ホントかしら。でも、本日のシェフのおすすめ「かきとえびの季節の香草揚げ」、なんて洒落たディナーを出しているから、ホントかもしれない。しかし、このレストラン、土日祝日が休み。見舞客が入院患者とゆっくり食事などできるのは、まさに土日祝日だけで、むしろウィークデーが休みというならまだ分かるのだが、不思議な営業方針である。ホントにリーガかしら。