【嘘人半真の郷土史】 2012年5月2日更新 メニューへ戻る
●120502 阪大北方に広がる箕面の山は「明治の森箕面国定公園」である。「明治の森」って何だ? それは1967年の明治百年を記念して指定した一対の都市近郊森林公園のこと。ペアのもう一方は、東京の「明治の森高尾国定公園」である。そして、この二つの公園を結んだ全長1700km!
の長距離遊歩道を、「東海自然歩道」という。高度経済成長/自然破壊の真っ只中、よくそんな発想ができたよね。その発想者は、厚生省国立公園部(当時)の事務官、大井道夫氏である。環境庁(現環境省)の設立にも尽力した。その名にふさわしい大いなる道ではないか。感謝しよう。同氏は平成19年5月2日没、今日が5周忌にあたる。
●120426 前回記事の西行法師の歌とはどんな歌かという質問が寄せられた。「聞きもせずたばしね山の桜ばな
吉野のほかにかかるべしとは」という。無粋に現代語訳すると「吉野山以外にこんな桜がありうるなんて聞いてなかったよ」。西行法師は吉野山に庵を結んだうえ、全国を観桜ツアーした桜フェチである。生前「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」と詠み、その願い通り文治6年2月16日(西暦1190年3月30日)に亡くなった。正15日を避けたのはお釈迦様に気を遣ったためである(2月15日は釈尊の命日=仏滅)。
●120423 ソメイヨシノは終わったが、八重桜は今が盛りである。阪大豊中キャンパス周辺では、阪大坂とグランド上の宮山通りが見事だ。ただ、この2か所のサクラは色が違う。阪大坂のは白く、宮山通りのは真っ赤に近いほど紅い。種類が違うの? はい、違います。前者はフゲンゾウ、後者はカンザンです。どちらにも葉化した雌しべ(って変かな、もともと雌しべも雄しべも花びらも葉の変形だからね)が2本あって、クネッと曲がっているところがゾウの鼻みたい。というので、普賢菩薩の乗っている白象に見立てたのがフゲンゾウ。普賢菩薩は紅象に乗ってはいないので、紅花は菩薩様には因めない。カンザンの名は、平泉中尊寺を訪ねた西行法師が束稲山の満開の桜を愛でて詠んだ和歌に因み、中尊寺の山号「関山」をとったといわれるが、確実ではない。カンザンの花は、熱湯にさっとくぐして塩漬けにすると、香りのいい桜茶になる。
●120310 南千里駅の東、佐竹台3丁目に広い池がある。菩提池(ぼだいいけ)という。ここには昔ゾウがいたそうだ。昔っていつ頃? 万博関連? いえいえ、200万年くらい昔、まだ人類が地上に現れる前のこと。昭和23年、ステゴドンの一種Stegodon
auroraeの上顎臼歯の化石がここで発掘された。とは、池の端に立っている解説板の受け売り。あまり大きくない、クマくらいのサイズだったらしい。本州の何カ所かで骨格が出ているが大陸には出ていないので、日本固有のゾウのようだ。メタセコイアの実を食べていたらしく、メタセコイアの日本での絶滅とともにこのゾウも絶滅した。今また、小野原街道にはメタセコイアが生えているので、そのうちゾウも生えてくるかもしれない。
●120220 阪大千里門の前の池を水遠池(ずいおんいけ)という。ここから出る小川と、国立循環器病センター隣の蓮間池(はすまがいけ)から出る小川とが、大阪バイオサイエンス研究所のところで合流し、山田川となる。両池とも人工のため池だが、歴史は古く、17世紀後半の築造らしい。江戸時代、この水の利用について何度もトラブルがあり、何度も村間協定が結ばれていることから、それがわかる。阪大吹田キャンパス内の池(犬飼池)も、おそらく同じ頃の築造だろうが、こちらについてはよくわからない。明治の地図をみると今よりだいぶ大きく、水利への貢献は大きかったろうに、なぜ記録がないのだろう。
●120201 江戸期の観光ガイド「摂津名所図会」の吹田には、「吹田の渡し」が採り上げられている。どこのことだろう。それは、大阪は天満宮から発して亀岡に向かう「亀岡街道」が神崎川を渡るところだから、現在の高浜橋付近に当たる(江戸期と現在とでは川筋が変わっているので、正確にはもう少し上流で、記念碑は上高浜橋近くにある)。ここは今でも川幅100mは優にある。図会の渡し船は満員だ。これを渡ると、高浜神社の門前で、ここで分かれて西に向かうのが吹田街道(阪急吹田駅方面)。亀岡街道本道は北に進んでJR線を越え、北東に向かう(現府道14号)。で、約3km行って山田川に至り、ここで左に折れる道(現府道1号)が、わが小野原街道である。
●120114 国道171号線と新御堂筋の交わる交差点の近くに「萱野三平」という停留所がある。このすぐそばに、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」のヒーローの一人、早野勘平のモデル、萱野三平の旧宅がある。歌舞伎の勘平は盗みの疑いをかけられて切腹するが、史実の三平は、父が探してきた新就職口と仇討計画の板ばさみに苦悩して切腹する。それが元禄15(1702)年1月14日、つまり310年前の今日のことだ。その切腹の間も、当地に復元・保存されている(門と塀は当時のものが現存)。
史実の三平は、その10か月前、主君切腹の知らせを国元に届けるため、江戸から赤穂まで夜に日を継いで疾駆する。その途次、この実家の前を通る(だって、この国道171号線は西国街道なんだから、江戸から九州まで、皆この道で行くわけだ)。そのとき葬列に会う。それはなんと実母小満の葬列だった。しかし、知らせをお城に届けるのが先だと、涙を振るって駆け続けるのだ。これはフィクションではない。旧宅から南に少し行った墓地に、三平と母の墓が現存し、母の墓石には元禄14年3月15日(内匠頭切腹の翌日)没と刻まれている。事実はドラマよりドラマチックである。
ところで、阪急バスの停留所の名づけ方は不思議で、この停留所は「萱野三平」と言い切りである。「萱野三平旧宅」とか「萱野三平邸前」とはいわない。そのくせ、その次の停留所は「萱野小学校前」と、こちらには不要な「前」がついている。
●120101 あけましておめでとうございます。
阪大医学部の前を通ると、新春の青天に向かって、大きなオベリスクが聳え立っている。これはエルメレンスの碑という。クリスチャン・エルメレンス(1841-1880)は、明治3(1870)年、阪大医学部の前身、大阪府医学校病院が上本町(現在の国立医療センターの地)に設けられたた直後、医師・医学教師として来日したお雇い外国人である。オランダのフローニンゲン生まれで、ベルリン大学医学部をトップで卒業した秀才だという。大学に残るよう勧められたが、好奇心満々の青年は、西洋に門戸を開いたばかりの未知の国をその目で見たくて、来日した。以後7年間にわたって治療と日本人医師養成に努め、その間のエピソードは数多く残されている。気さくな親日家で(これは、珍しくはないにしても、どちらかというと少数派で、お雇い外国人の多くは「非文明人に文明を授ける」上から目線で日本人に接した)、患家や弟子たちに惜しまれながら離日したが、間もなく病を得、39歳の若さで亡くなってしまう。愁嘆した彼らは、大阪の最上等地、中之島公園の大阪ホテル(現在の東洋陶磁美術館の地)の前に、記念碑を立てた(1881)。それがこのオベリスクである。台座には緒方惟準(洪庵の息子)らの同僚医師や弟子たちの名がぎっしりと刻まれている。当時の姿は絵葉書にみることができる。 www.oml.city.osaka.jp/hensansho/exhibition/newsletter/tayori026.pdf
設乙越爾蔑嗹斯先生紀念碑、か。なるほど。んん? 最初の「設乙」からして意味がわからんぞ。せついつ? 碑や塔を建てることに関しての漢語表現だろうか、それとも単に、C(hrisitian)
J(acob) ErmerinsのイニシャルCJをオランダ語読みしたセー・イェーを漢字に移しただけだろうか。
●111203 能勢電車平野駅前のホームセンター「サンシャイン」が閉店して6年半。その跡地に先日ホームセンター「コーナン」が開店した。私はこの日を待っていた。早速私が向かったのは、植木売場でも釘売場でもなく、裏手の丘。あったあったー、壊されずに残ってたー。三ツ矢サイダーの碑、宮中向けサイダーを作っていた「御料品製造場」、そして住吉大社の分社の小祠。コーナンの配慮に感謝。ただ、鉱水の源泉井戸に渡る小橋はなくなっていて、川は渡れない。ここも復活してほしい。サンシャインはもう跡形もないが、それ以前「平野温泉」として営業していた頃の浴場建物は、幽霊屋敷然とした廃屋となってまだ残っている。橋が復活すればここも探検できるのだが(廃屋でも住居不法侵入になるかな)。
●111002 能勢電車「一の鳥居」駅前の塩川城(110429参照)天守閣で、特別展「天下統一〜信長と戦国の武将たち」をやっている。謙信・信玄・信長・秀吉・家康・秀忠などの手紙や、信長の軍配やら初姫の経箱やらの、その本物がある。まあ、手紙は本文は右筆(秘書)が書いていて、本人は花押(サイン)しているだけだけどね。秀吉正室ねねのサイン(「ね」の小さな一文字)と側室茶々(淀君)の筆跡(歌の練習)から、気性の違いを見るのも楽しい。信長配下八武将の連署状も面白い。秀吉は4番目で筆頭は明智光秀なのね。これをサインしながら、秀吉は「こりゃだちかんでかんわ、わしが天下をとったりゃーす」って燃えてたんだろうね。
PS. 宣伝ポスターには、武将たちの花押があしらってあるのだが、秀吉のはない(光秀、元就、利家、家康、信長、秀忠、正則、清正がある)。秀吉に滅ぼされた塩川家の意趣返しか。
●110822 津波の被災地、復興の道のりはまだ遠く、心からご同情申し上げる。しかし、何が何でも元の場所に、というのもいかがなものか。地域のつながりを保ちつつ集団移転を考えていただきたい。わが能勢電鉄に滝山という駅がある。明治4年5月18日、滝山村は大火に見舞われ、村の大部分を焼失した。村民はその地での復興を諦め、村ぐるみで今の地に移った。140年後の今、あのとき元の地に留まっておればよかった、という声は聞かれない。
●110703 抵抗の甲斐なく、とうとう誕生日が来て(抵抗できるわけないか)、娘にちゃんちゃんこを着せられてしまった。辛卯(かのとう)。15回前の辛卯は1111年。いや、とくに大事件があった年というわけではないが、なんだか嬉しいので覚えている。
この郷土史コーナー関係の大事件があったのは、8回前の辛卯か。1531年(享禄4年)、室町政権の管領細川高国・浦上村宗連合軍が、3月に池田城を落とし、勢いを駆って京まで入ったが、6月に赤松政佑・細川晴元・三好元長連合軍の反撃にあって尼崎大物で破れた事件がある。一族郎党が敵味方に分かれ、昨日の友は今日の敵、戦国争乱の世の典型的事件として、歴史の教科書に時々引かれる。「大物崩れ」といい、阪神大物駅西側に碑が立っている。
●110429 (雑感項と重出)わが通勤路なる大阪青山大学北摂キャンパス(能勢電鉄一の鳥居駅前)には「戦国三将の像」という大きなモニュメントが建っている。戦国三将といわれれば、誰しも信長、秀吉、家康を思い浮かべようが、ここで腕に白鷹をとまらせる信長の左側に跪従するのは、小姓の森蘭丸である。信長の右手に立ち、信長以上に恰幅よく威厳を放つ人物は、塩川伯耆守国満である。このメンバーを三将というのはちょっと無理じゃないかしら。蘭丸は武将じゃないよね。それに、塩川国満って誰? 誰も知らないでしょ。
信長以上に立派な塩川国満の像がここにある理由、その1。「信長公記」天正7(1579)年3月14日の条に、信長が多田で鷹狩をしたとの記事があり、そのホスト役がこの地の領主、国満である。そう、この地域一帯は信長時代塩川家の所領だった。このキャンパスの前を流れる小川を、今も塩川とよぶ。しかし、塩川家は隣の能勢家と領地争いを繰り返した挙句、信長既に亡き天正14年12月15日、秀吉配下の池田輝政らに攻められ、山下城で滅ぼされる(異説もある)。能勢家は維新まで残る。
理由その2。学校法人大阪青山学園の創立者は故・塩川利貞氏である。いま、青山大学北摂キャンパスには白亜四層の天守閣が聳える。400年ののち、お家は再興された(国満から利貞氏までの系譜はネットでは不明)。
●110410 伊丹空港へモノレールで向かうと、蛍池駅を出てすぐ、噴水のある池の上空を通る。これを南門前池という。麻田藩陣屋南門の前の池、という命名だ。その左側(東側)に、こんもりと丸い森がある。この森を、麻田御神山(あさだおがみやま)という。麻田藩主はじめ領民が拝む山、という命名だ。
この丘は、紀元3世紀後半〜4世紀築造と推定される前方後円墳の後円部である。その頂には今、H氏の大邸宅があり、前方部はそこから北東方向に伸びるのだが、阪急電車の線路に削られてしまって現存しない。しかし、もう一つの蛍池駅前池(箕輪池)の形によって、前方部の輪郭を想像できる。つまり、この二つの池は、大きな古墳(全長80mと推定される)の周濠(当時水が張られていた保証はないけれど)の跡なのである。なお、前方部を削平した「犯人」は小林一三ではない。明治19年の地図を見ても、すでに道路(現在の国道176号線)になってしまっているから、削平されたのは江戸時代かもっと前だ。
この古墳、一体誰のお墓だったのだろう、想像すると楽しい。3世紀後半はまさに大和政権の成立期だから、もしかして邪馬台国関係者だったりして(卑弥呼は3世紀前半の人)。滅ぼされちゃった側の地方豪族かもしれない。あのH邸の庭、掘らせてもらえないものだろうか。なお、阪急電車には、この邸だけのための踏切がある。そこが、この前方後円墳の「造り出し」の位置にあたる。
●110401 弘済院に隣接する、山田公園のゴルフ場や遊園地(110310参照)はどうなったか。戦時色が濃くなるにつれ、ゴルフどころではなくなり、府は芝生をはがして芋畑にした。耕すのは近隣の山田村・新田村の小作農、元々新京阪からの借地だから、地主は新京阪のままである。
戦争が終わると、幣原内閣は間髪をいれず、その年のうちに第一次、翌年に第二次の農地改革を断行した。これは驚天動地の超民主的な大改革で、地主から土地を強制的に取り上げ、実際の耕作者に分与するというものである。無償というわけではないのだが、国が地主から買い上げた額も小作農に売った額もほとんどタダ同然で、小作農は一夜にして土地持ちの自作農になった。今こんなことをやったら政府の3つや5つはふっとぶが、当時マッカーサーの命令とあれば逆らえない(実は先進的農務官僚と政治家がGHQの威光を利用したらしいのだけれど)。反対したのは、大地主と共産党である。大地主は大損するから反対した。「こんな小金では、補償になってない」と訴訟も起こした。しかし、「補償はしている、補償とは等価交換の意味ではない」と断じられて敗訴した。共産党は、地主から土地を召し上げるまでは賛成だが、それを小作人に売ってしまっては共産制にならない、土地は国が持っていなくてはならないから反対した。GHQは、民主化は至上命題だが共産化は困る。
かくして日本全国に厖大な数の小地主が生まれた。そして保守党の大票田が生まれた。いちおう、耕作をやめたら国が買い戻すという制度ではあったのだが、そんな建前を守る農家はない。今、日本の農政を悩ませている小規模性・非効率性は、この超民主的改革にこそ原因がある。やがて、新田村は千里ニュータウン建設の日を迎える。20年前の「赤貧洗うがごとき小作人」は、ついに土地成金になった。
●110327 阪大の北に横たわる箕面連山。その北側に小盆地がある。豊能町高山。東に出れば池田、南に出れば箕面・吹田、西に出れば茨木・高槻。この地は、キリシタン大名、高山右近の生地である。そこに真菜まつりという行事があって、出かけた。真菜とはアブラナで、「菜花」よりはもう少し育ってトウが立った状態で収穫する。アブラナには少しずつ性質の違うたくさんの品種があり、それぞれ別の名でよばれるが(料理110325のカキナもその一つ)、これは苦味の少ないスナオな葉野菜である。で、右近の故地巡りをする。右近の生誕地と伝わる高山城跡は、「高山」とは大げさな低い丘である。
高山家は、勝尾寺の荘園であるこの地の代官(徴税代理人)のような立場にあったが、しばしば実力にまかせて立場を無視し、独立統治を行った、いわゆる土豪である。戦国の中名・小名の典型だ。右近の父飛騨守は、松永久秀について沢城(奈良県)を任されるが、このとき、清原枝賢とロレンソ了斎の宗教討論会(1559)に臨席して感動し、転宗する。そりゃそうだろう、了斎は琵琶法師出身で、物語りのプロだ。学者がかなうはずがない。仏教側は人選を誤った。
右近は、故地のここ高山で生まれ(1552)、沢城で洗礼を受けた(1564)。父の強制だから、当初は信者としての自覚は薄い。が、戦いの中で負った瀕死の重傷から奇跡的に生還した(1573)ことで信仰を深め、以後最も志操堅固な信者になった。戦国の変転の末、信長から高槻4万石を安堵されて(1578)からは、寺社を破却して教会に変え、ついに領民の8割を信徒にしたという。だからキリスト教徒から見れば偉人だが、仏教徒から見れば鬼である(「仏教弾圧」は寺社側の誇張で、大友宗麟らが九州で行った仏教弾圧を右近に仮託した濡れ衣だ、という説もある)。本能寺の変(1582)で光秀は右近が自分につくことを期待したが、右近は秀吉側につき、その功によって秀吉から明石6万石を任される(1585)。しかし、そこが武将としてのピーク。秀吉の禁教令(1587)で大名を下り、加賀前田家に庇護される。そして家康の禁教令(1614)。多くのキリシタン大名小名が(少なくとも見かけ上は)転宗したが、右近は最後まで拒み、結局亡命地マニラで客死した(1615)。64歳。
●110325 弘済院の歌碑(110310参照)のことが、やはり気になって問い合わせたところ、さっそく回答をいただいた。
天皇御製「世のなかをさびしくおくる老人にたのしくあれとわれいのりけり」
皇后御歌「さちうすき人の上のみ思ひつつまことささぐる人のとふとさ」
とのことである。
陛下、老人「耳」って「に」ですか。「われ」って、教えて下さってもまだ読めません。[王連」でしょうか? 「川ゝ」で「つつ」なんて無理です。
それにしても、天皇が入院者を気遣えば、皇后は職員を気遣う。さすがのご配慮である。今回の大震災で、被災者を気遣うのは当然だが、自らの被爆を顧みず、懸命に復旧を図っている真最中の現場の東電社員を怒鳴りつける首相や、必死に放水を敢行する消防職員を「休んだらクビだ」と脅す経産相は、頭のねじが一つ外れている。
●110311 東北関東大震災に被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。
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●110310 阪大に近い古江台の中環沿いに大阪市立の老人ホーム・病院「弘済院」がある。大阪市立なのになぜ吹田市にあるかといえば、最初は大阪府と大阪市の共同運営だったからである。
今からちょうど100年前の明治44(1911)年、大阪府知事、市長、朝日新聞社長、毎日新聞社長らが連名で福祉事業会「弘済会」の設立を申請し、内務卿原敬から認可をえた。基金は明治天皇からの下賜金である。そして、その最初の事業の一つとして、生野の大阪慈恵病院を吸収した。昭和7(1932)年、弘済会は、新京阪電鉄(今の京阪線ではなく、阪急千里線と京都線の前身)から、現在地を含む63,000坪の土地を購入し、生野のホームと病院をここに移転した。ちなみに、このとき新京阪がこの山田村・新田村に持っていた土地は200,000坪に及び、府はこれを借り上げて昭和9(1934)年ゴルフ場や遊園地を作った。これを府立山田公園という。これについては100425に書いた。
昭和19(1944)年、大戦の真っただなか、大阪府は弘済会の運営から手を引き、以後は大阪市が単独で運営することになった。そのとき、弘済会は「大阪市立弘済院」 と改名される。上のような事情から、この老人ホーム・病院は皇室との関係が深い。昭和31(1956)年、昭和天皇・皇后の行幸があり、その時の御製が歌碑となって、今病院玄関前に立っている(が、入江侍従の書があまりに達筆で、私にはよく読めない)。
現在、財政難に苦しむ大阪市は、この弘済院の整理を計画していると聞く。市立病院は市内にあるのが本来だと、市立十三病院に吸収しようというらしい。しかし、この現在地のゆとりある配置は、養護施設としてこの上ない好環境で、十三には望めない。市が拙速に売却・民営化に突き進まぬことを願う。
●110305 我が家の裏山は「雨森山」といい、ちょっと強い雨の日には土砂崩れが心配になる雨漏りの山である。しかし、麓には、この山を神として祀る「天森神社」があり、今でも夏になると「雨乞い」の神事を行う。ついこの間まで、ここ原村・内馬場村・紫合村の農民にとっては、土砂崩れより日照りが死活問題だったのである。石鳥居、灯篭には明治九年の刻があるが、これは火災後再建の年で、創建は町史によれば江戸時代初め頃だろうという。遷宮記念の大正八年の碑もあるが、これは八幡神社の合祀の記念碑である。
●110210 阪大豊中キャンパスから遠くない、阪急箕面線桜井駅北の桜ケ丘2丁目の一角には、戦前にタイムスリップしたような不思議な趣きがある。敷地100坪以上のお屋敷町なのだが、それらの多くが、レトロモダンというか、ハイカラなのである。和風の白板壁なのにコロニアル風のバルコニーがついていたり、急斜面の赤い屋根の途中に窓があったりする。
種を明かせば、それらは、大正11(1922)年秋、ここで催された「住宅改造博覧会」のモデル住宅の生き残り、つまり90年前の最近代住宅である。当時の25棟のうち、9棟が現存する。今でいう住宅展示場なのだけれど、展示後そのまま分譲する前提だったから、周囲の町並みとコミで設計されており、当時から上下水道も完備。だから今も現役住宅でいられるのだ。現住住宅なので、中に入って見たわけではないが、おそらくタイル張りの浴室や、マントルピースのある応接間があり、出窓から令嬢が庭のバラ園を見下ろしたりできるようになっていた(いる)のだろう。年々老朽化して数を減らし、今日も1棟が工事中だったが、壊すなら市が買い取って町並みごと保存してほしいものだ。
●110110 今週末はセンター入試。一高といえば今の東大(正確にいえば東大の教養学部)と歴史がつながる。二高といえば東北大、京大といえば三高だ。ところが、阪大は帝大ながらナンバースクールとつながらず、それがコンプレックスになっている風がある。阪大教養部は旧制浪速高校と旧制大阪高校の後裔なのだが、大阪府立だった浪高はともかく、官立(国立)の大高になぜ番号がつかなかったか。それは、大正7年(1918)原内閣の「高等諸学校創設及拡張計画」によって設立された10校のうちの1つだからである。
第一次世界大戦後、戦勝の好景気を利用して工業立国への転換を図った日本は、それを担う人材が大戦前の8校だけでは不足であるとして、大量育成を企画した。九高、十高と続けてもよかったのだが、新潟と松本が一ケタ入りを巡って争い、陳情合戦を繰り広げたため、文部省が喧嘩両成敗で番号づけをやめた。だから、そこからネーミング方針が変わり、ちょうど設立経緯の境目とも一致するので、八高(名古屋)までの学生・卒業生は、地名を冠することになった非ナンバースクールの学生を「濫造の粗悪学生」といわれなく見下したのである。そのせいで、百年後の阪大生も、京大生に劣等感をもち、かつ、より後の神戸大生(教養部は旧制姫路高校の後裔)に対して優越感をもつ。困ったものである。
●110101 あけましておめでとうございます。
●101210 お歳暮に泉屋東京店のクッキーをもらった。このクッキー(とその缶)は古典である。
泉屋は元々大阪の貿易商であった。その3代目伊助は、阪大外国語学部(旧大阪外語大)出身で、仕事柄外国人との付き合いも多かった。妻の園子は、教会で、ミサの後や日曜学校で出る牧師夫人の手焼きお茶菓子が気に入り、自分も焼きたくなった。妻は牧師夫人に実技を習い、夫は英米のレシピ文献を集め、いろいろ工夫し、いろいろ焼いた。それが口コミで評判になり、とうとう京都に店を出した。店というより、依頼を受けて焼くボランティア窓口である(1927)。もらうのは実費だけ。利益はなし。だって生業は別にあるのだから。ところが伊助が亡くなってしまう(1936)。子供たちを抱え、途方に暮れた園子は、この焼菓子で生計を立てることにする。商売にするなら、人口の多い東京だが、馴れぬ土地。これは賭けである。なむさんっ(クリスチャンは南無三宝仏法僧とはいわないか)。不安を抱え、希望を託して焼いたのが、今も缶の中央にある「ring
tart」である。荒波を受けても沈まぬよう、願いを込めて浮輪をかたどった。レーズン、チェリー、アンゼリカ、レモンピールで、その浮輪につかまる一家4人をかたどった。賭けは当たった。けだし天佑神助といふべきであらう。
●101010 池田は落語の町である。上方落語の定番、「池田の猪買い」や「牛ほめ」など、池田を舞台にした演目が知られるだけではなく、大阪近郊で最後まで残っていた寄席・芝居小屋「呉服座」が、昭和44年まで営業していた。上方落語協会会長の桂三枝師匠も池田に住み、倉田市長ともども「落語で町おこし」を図っている。その旧「呉服座」跡地(建物は犬山の明治村に移築され、国指定重要文化財として保存されているので、あああれか、とご存じの方も多かろう)からほど近い「池田中央映画」が、新「呉服座」に衣がえオープンし、ここで10月23日に「社会人落語日本一決定戦」の予選会が開かれる。翌24日の決勝会は、別の場所(市民ホール;石橋駅徒歩10分)だが、ぜひ盛りあげてもらいたいものだ。
「池田の猪買い」は、下の病気に猪肉がいいというので、大阪丼池の甚兵衛さんが池田まで猪肉を買いに行く話だが、その道は能勢街道である。豊中キャンパスの前を通る。手元にある仁鶴のCDでは、残念ながら岡町から池田にとんでしまうが、新演出では阪大や石橋商店街も織りこんでほしい。池田の猪は池田の北山、能勢で獲った獲物で、現在も能勢地方の名物の一つだ。能勢・豊能・猪名川には猪鍋の店が多数ある。下の病気に悩む人にも悩まぬ人にもおすすめしたい(蛇足ながら淋菌に猪肉は効きまへん)。
●100924 六十数年間壁に塗りこめられて隠され、先ごろ「発掘」された、旧制浪速高校本館(イ号館)校長室の「奉安庫」を、特別にお願いして見学させてもらう。「奉安庫」とは、戦前戦中、天皇皇后の写真(ご真影)を保管していた設備である。独立の小建物としてある場合は「奉安殿」という。これらは、皇国史観の象徴と見なされ、戦後直ちに破却されたり撤去されたりし、現存するものはごく少数だという。
しかし、今回「発掘」されたものは、神棚風なものではなく、作りつけの立派な金庫然としたものである。内側に緑のビロード織が張ってあったようだが、金庫として使い続けたいといえば、GHQも壊せとはいわなかったろう。むしろ、浪高側が過剰反応して、ポーの黒猫のように塗り込めたようだ。その塗り込めのおかげで、表のニス?漆?も、つい先日塗ったばかりのようにピカピカである。観音開きの両扉の上下4カ所に、大きな紋章がつけられていた跡があり、それがどんなものであったのか、興味をそそられる(坂本竜馬の「組み合い角桔梗紋」みたいにも見えるが、まさかね)。この「奉安庫」も、今回のイ号館改装とともに、ついに破却されることになるという。
ついでに屋上に上がり、擁壁の上に据えられた2つの角錘を見る。一つは宮城(皇居)を遥拝する際の、もう一つは伊勢神宮を遥拝する際の照星だという。ということは、折ごとにかの「奉安庫」からご真影がこの屋上に運ばれ、校長以下が居並んで勅語を奉戴していたということになる。イ号館屋上は今でも眺望のよく利く、お薦め観光サイトである。80周年記念事業として、VIPルームがイ号館最上階に設けられる計画だときく。「奉安庫」もここに移設したらよかろうに。
イ号館講堂の階下はホールだが、その先にまた部屋がある。校長室が現役だったころの図によると、そこは銃器庫であった。
●100630 阪大の地、豊中とは、古代の豊嶋郡(てしまのこおり)の中心部、という命名だが、豊嶋郡の中心とは、いったいどこか。だいたいこのあたりに島なんかないじゃないか。大昔は島だったのか。
いえいえ、日本語のシマには、狭義の「水に取り囲まれた孤立地」という意味をこえて、広く「地域」をも意味した。今も「や」関係の方々が勢力圏を「シマ」という、あれである。大阪湾から見て、猪名川と神崎川にはさまれた地帯を、狭義にいう島に見立てたという説明もできるが、ちがうだろう。ただ、猪名川と神崎川にはさまれた地帯、つまり今の庄内あたりが豊嶋の中心地であったことは事実で、それは「庄内」、つまり集落の中という地名に残されている。「豊」とは、両川がもたらす豊富な水と、肥沃な土が生み出す収穫をさす。今は庄内は豊中市の南端だが、ここが豊嶋の中心である。
●100612 <100601よりつづく> 回答は「瓦町の旧社屋は空襲で全焼してしまい、初代が店を構えた当時の記録は残っておりませんが、おそらく空襲まで瓦町2丁目7番地の位置は同じでしょう」。2丁目といえば、御堂筋の東側、西横堀よりむしろ東横堀に近い位置か。だいぶ違うな。また、さらに調べてみると「大和屋」はこの界隈に多い屋号で、ハチ食品の祖は大和屋(今村)弥兵衛、種痘所のスポンサーは唐物屋(輸入商だから、漢方薬も扱っていたはずだが、調合してカレー粉にするような散薬そのものを売っていたわけではなさそう)の大和屋喜兵衛。残〜念、ハズレでした。惜しい。
●100601 阪大博物館(阪急石橋駅より徒歩すぐ)で今開かれている「えがかれた適塾」展。入場者が最初に見る大パネルは、手塚治虫の「陽だまりの樹」の一コマ、緒方洪庵が天保9(1838)年大阪瓦町に適塾を開くシーンだ。実は、この初代適塾が瓦町のどこにあったかは、明らかになっていない。洪庵が「大和屋」の後援をえて建てた種痘所が西横堀沿い(今の阪神高速の高架下)なので、たぶんその近く、現在の西本願寺大阪会館の北あたり(瓦町4-5丁目)だろう、と推定されているにすぎない。今に残る適塾は、初代が手狭になったために、弘化2(1845)年に北浜過書町に引っ越した、その二代目適塾である。
さて、先日たまたまカレーライスの講義をすることになり、いろいろ調べ物をしていたところ、日本で最初にカレー粉を作った薬種問屋「大和屋」!は、弘化2年!に大阪瓦町!に開店したとの事実に出会った。ええっ。もしかして、あの「大和屋」は初代適塾が引っ越した、その跡地に入ったのでは? それで適塾との縁ができた、あるいは、縁があったため跡地に入ったのでは? もしかして新事実発見? と期待に胸躍らせて、薬種問屋「大和屋」の後身たる、(株)ハチ食品(現在は御幣島にある)に問い合わせた。や「大和屋」の店は、か、瓦町のど、どこにあったのでしょうかっっ。<以下次号につづく>
●100501 事業仕分け第二弾で、万博機構に廃止の判定が下った。さあ、今後どうなるのだろう。民間に売ってテーマパークにするという話がある。道路や電車が大渋滞したら近隣は困るな。でも買う会社はないだろうな。となると、放置されるだろう。森にはカラスが住み、池には蚊が湧き、近隣は困るな。近隣って誰か。阪大である。結局切り売りされて分譲地か。
それとも鳩山首相の窮余の策と橋下知事の思惑が一致して、伊丹空港とひとくくりで米軍基地になるかもしれない。阪大豊中キャンパスはかつて米軍キャンプだったのだから、ありえなくはないぞ。
●100425 拙宅周辺に毎年春の到来を告げるのは、日生中央駅前ゴルフ場で開かれる「つるやオープンゴルフ」である。今年は、人気の石川遼くんが、2日目に猛チャージして優勝争いにからんできたし、今日拙宅周辺は朝からギャラリーの違法駐車の行列だった。
さて、関西のサラリーマンゴルフ熱の発祥は、阪大吹田キャンパスのすぐ南に接する山田の地である。昭和10(1935)年7月、当時の京阪千里山線(現阪急千里線)の終点千里山駅から弘済院病院(山田駅近くに現存)まで北上する京阪バス路線の中ほど(山田村大字山田上+新田村大字上新田)に、広大な府立千里公園がオープンし、その一部に関西初のパブリックコースが開かれた。「千里GC」あるいは「山田ゴルフ公園」という。グリーンフィーはキャディー付きでも70銭で、千里山駅からクラブハウスまでのタクシー代1円より安かったという。間もなく押し寄せる戦争の波に、やがてイモ畑に変えられてしまうが、いっとき休日ゴルファーで大賑わいした。現在の千里中央ニュータウン(の一部)は、その跡地である。
●100418 大河ドラマの「龍馬伝」で、勝海舟のゆかりの地として、本所の「能勢妙見宮」が紹介されていた。守本奈美アナは詳しくいわなかったが、ここは9歳の海舟がノラ犬に金的を食いちぎられて半死半生になったとき、父小吉が水垢離をして救命を祈ったところである。金的をちぎられても、人間、死にはしないのだが(「じゃりん子チエ」の小鉄を見よ、「蒼穹の昴」の李春雲を思え、金的どころかチ○○○も切り落としたぞ)。海舟は長じて一男三女をもうけているから、ご利益はきちんとあった。現在の財務省主計局長勝栄二郎氏は、海舟のひ孫である。妙見宮が鳩山政権を陰で支えているわけだ。
本所妙見の本宮は、もちろん、ここ大阪能勢の妙見山である。といって、妙見山はとくに子孫繁栄とか金的関係にご利益があるというわけではなく、あえていうならこの地に盛んな浄瑠璃に因んで、芸能にご利益がある。だから、福山雅治には、ぜひ視聴率向上のため参詣してほしい。なぜ本所に妙見宮の別院があるかといえば、そこに戦国武将を経て徳川家旗本に納まった能勢氏の屋敷があったからである。
●100301 阪大吹田キャンパスの最寄り駅は、公式には今でも阪急北千里駅である。この駅は、鉄道史に燦然と輝く記念さるべき駅だ。何でか。世界で最初に無人改札機が制式採用された駅だからである。今から43年前、1967年3月1日、阪大工学部とオムロンが共同開発したパンチカード式定期券が、この駅でまず営業使用され、1971年1月1日から切符も含めて磁気式になった。今日本中(世界中とはいえない、なぜならヨーロッパの鉄道には、もともと改札がない)の鉄道駅で使われている無人改札方式は、ここから始まったのである。その由来を刻したプレートとパネルが、阪大博物館の入口にある(改札機本体も展示してほしいものだ)。しかし、この先進的な駅では、どういうわけか、発車合図は今でも機械式のベルがジリリンと鳴る。
●100222 箕面起源その3。ミスタードーナツ。今や日本全国に1300店舗超のフランチャイズを開くミスドだが(本家アメリカにはもっとたくさんあると思ったら、1990年にライバルのダンキンドーナツに吸収されて今はもうないんだと)、その第1号店が、府道9号線箕面6丁目交差点のダイエー箕面店敷地内に開店したのは、1971年4月。そのダイエーの経営不振−撤退の余波を受け、2001年5月にミスドもいったん消えたが、跡地に建ったマンション「アーバンライフ」のテナントとして、2004年4月、元の場所に復活した。軒先看板に表示されている店舗番号"0001"が誇らしい。なぜ1号店が箕面か。それは箕面の人口構成が都市型文化のパイロット調査に向いているからだという。箕面に相当する東京の地域というと八王子あたりになるのだろうが、それでもアーバンすぎて、そこで流行っても全国には適用できない。適当に都会で適当に田舎、というと、ここらになる、らしい。
●100201 箕面起源その2。阪急豊中駅前(北口)に若草色のペンキ塗り木造3階建ての建物が現存する。「豊中クラブ」の表札がかかっている。地域の集会所だが、これこそ現存する日本最古の喫茶店建築だという。日本最古の喫茶店、というわけではない。それなら鎌倉時代か室町時代にもあったろう。現存する、である。明治44年6月に箕面公園で開業した「カフェ・パウリスタ」の移築だという。CAFE
PAULISTA, COFFEE WITH CAKE 10SENとある大阪朝日新聞掲載の広告が残っている。CAFEのEの上ではなく、Fの上にアクサンがついているのがユニークだ。パウリスタは「銀ブラ」の語源(銀座でブラジルコーヒーを飲む、の意;銀座をぶらぶら歩きする、ではない)といわれる喫茶店で、今も銀座8丁目に店を構えるが、なぜ1号店が箕面なのかは、次回。
●100107 阪大は豊中/吹田/箕面の3キャンパス体制で教育を行っている(中ノ島は行事のみ)。その箕面。箕面にはいくつか日本初というものがある。その一つが「宝くじ」。箕面滝近くの箕面山滝安寺で、平安時代から続く「富くじ」で、いや「続く」とはいえないな、実は明治初年からつい先頃まで絶えていた、正月七日(人日の節句)の伝統行事である。2009年11月に146年ぶりに復活した(滝安寺については、いずれ稿を改めて紹介しよう)。
「箕面富」では、当選者には賞金ではなく「福」が当たったのだそうだが、それだけで何百年も人気が続くものか、ちょっと信じ難い。江戸時代、全国の寺社で金銭が当たる「富くじ」が流行り、その様子は落語の「富久」「宿屋の富」などに活写されているが、幕府はそれを「人心を乱す」としてたびたび禁止した。たびたび禁止したということは、たびたび復活したということでもある。その禁令に対して、滝安寺では「当寺の富くじは金ではありませぬ、福が当たるのみにてござりまする」など、と言い逃れしたのではなかろうか、と邪推する。現在のパチンコだって、建前では、直接金が当たるわけではなく、せんとくん人形や開かないケースに入ったアクセサリーなどの「福」がもらえるだけで、客はそれを自主的に別の店に持って行って売るのである。そのシステムもここで発祥したのかもしれない。
●100101 明けましておめでとうございます。
初詣は多田神社に。すでに何度も書いているし、全国的に有名な神社だから、由緒などの情報は、Wikipediaなどウェブサイトからいくらでも引き出せるので、ここで述べることはしない。私の眼目は、破魔矢にある。多田神社(本来は寺院)は、清和源氏の祖、源満仲が住吉大社から放った矢の着地したところである。その矢は九つの頭をもった魔竜を射止めていた。つまり、破魔矢は全国どの神社でも求められようが、この多田社の破魔矢こそ元祖である。満仲はこの邪鬼退治に満足して、スカッとサワヤカに一服飲んだ。それが三ツ矢(満仲の矢)サイダーである。今、この多田(平野)の鉱泉採取場は閉鎖され、日本サイダー発祥の碑にも、満仲公が勧請した住吉社殿にも立ち入れないが、なんとか復活させてほしいものである。それを祈念して一杯。
●091106 川端康成先生旧跡から南に下って国道171号に出ると、サーティワンがあり、その横に石碑がある。「ぼろ塚」と書いてあるらしいが、塚の字しか読めない。「本」の字に濁点「゛」と「褸」の字の草書体だというが、前もってそう知っていてもわからない(教養不足を反省)。これが徒然草の第115段に出てくる宿河原のぼろ決闘の地である。背後には小林製薬中央研究所。決闘のあとはアンメルツ。二人のぼろ=虚無僧は刺し違えちゃったらしいから、手遅れかな。なお、私は同社製品アイボンの愛用者である。
●091103 阪大病院前から北にモノレール1駅、豊川駅の近くに、ノーベル賞作家川端康成(明治32[1899]−昭和47[1972])ゆかりの地がある。旧三島郡宿久庄東村1番地、現茨木市宿久庄1丁目11番。康成は3歳で両親と死別し、この地の祖父母の元に引き取られて、茨木中学を卒業し東京の一高に入る18歳まで、この地で育った(中学2年からは日常は寄宿舎だったらしいが)。彼の人格形成はここで成ったのである。現在、ここには姪御の方がお住まいで、「川端」の表札が掛かっているが、覗き込まなくても門前に「川端康成先生旧跡」の石柱が建っているのですぐわかる。このお宅はモダンな住宅だが、周囲には旧家も多く、明治、とはいえずとも、昭和戦前の香りが残る。なお、北摂の有名人には、日本のドン、競艇の父、笹川良一がいるが、彼は康成と豊川尋常高等小学校の同級である。
●091030 私が研究室の雑貨やパソコングッズをしばしば求めるコーナンやPCデポは、国道171号の今宮交差点にある。「今宮」というからには宮があるはずで、それが延喜式内社、為那都比古神社である。社伝によれば、この社は、大和朝廷によって日本が統一される前、この地を中心にイナという部族国家が営まれていて、その依り神イナツヒコ=イナの男神=の神殿、なのだという。だから、この社の縁起は、延喜式編纂(927年完成)のちょっと前、どころではないらしい。しかし、「今宮」の名は、昔の宮があっての今の宮だろう。では古宮はどこなのか。
それは今宮から北西に1km、箕面市白島3丁目、箕面トンネル入口上の丘陵地であるという。ここに大宮寺池というため池がある。しかし、大宮寺という寺はない。実はここに明治初年まで、大宮寺=大きな宮を守護する寺、があったのだ。それが維新時の廃仏毀釈運動に巻き込まれて廃されたのだ。大宮寺のわずかな名残として、池畔に小さなお堂だけが現存する(薬師寺)。この大宮寺が守護していた神社こそ、何あろう為那都比女神社、イナツヒメ=イナの女神=の神殿、である。今の大宮寺池から北へ200mほど登ると、医王岩という巨岩がある。この岩(とその背後の山全体)が、為那都比女神社のご神体だった。なるほど、この岩は人の形をしている。まさに天から神が降りてきた姿に見える。嘘だと思ったら、ぜひ読者ご自身で確かめられたい(道が細いので車ではつらい;私は無理をしてプリウスの左後を擦ってしまった、えーん)。
想像するに、ヒコ神社もヒメ神社も元は一つで、ここにあったのだろう。それがヒコだけ今の石丸2丁目の地に移された。萱野の村落が大きくなり、参詣しやすい村地内にに移すことが望まれたのだと思う。平安時代中期(寛平4年=892年)のことらしい。それで「今宮」の名が発生した。しかし新地はただの平地で、肝心のご神体がない。そこで、ご神体の守護神というか、お留守番として、ヒメは元の地に残った。以降一千年、ヒコとヒメは別居状態であった。が、まあ近くではある。しかし、明治初年、大宮寺/ヒメ神社は消されてしまう。おいたわしや(どっちが?)。やがて村民の愛惜の声は高まり、ついに明治40年、ヒコ神社にヒメが合祀された。めでたし、めでたし。それはいいのだが、その結果、依り神はいま箕面山中に放置され、守る者は不在である。
●091026 私の郷土史コラムに反応を示してくれる友人はごく限られる。現に家人は、昔の道がどれかとか、あの建物は何かなんて調べて、何が面白いのかわからない、という。だから、世の中にこんなことに興味を持つ人は少ないのだろうと思っていたところ、お金の掛け方こそ違え、興味の方向はほとんど同じの番組が登場した。NHK総合テレビ木曜22時からの「ブラタモリ」である。先日は上野や早稲田や二子玉川の、昨日は銀座の、ごく些細な都市のディテールから不思議を嗅ぎつけてそれを解き明してくれた。この番組は、疑問を解くところもさることながら、疑問を見つけるところが楽しいのである。地下鉄入口の車道側に歩道が85cm張り出しているのはなぜか、なんて誰も気にしないでしょ。科学では、問題を解く能力もさることながら、問題を見つける能力が問われる。それは誰にも備わっているわけではない、一つの才能である。
●091024 前回の小野原街道の記事には、だから何だというのだ、とメールをいただいた。いや、別に何でもない。郷土史は、特にとりたてて主張をなすものではない。と、開き直って続ける。その文中に合流点を書いたが、そのままあと300mほど西行すると、大きな石鳥居前に出る。勝尾寺の一の鳥居である。お寺に鳥居は変? この鳥居は新品でピカピカ光っているが、それは阪神大震災で崩壊して最近新調したからで、もとはここに寛文6(1666)年建立の石鳥居があった。その前には宝治元(1247)年建立の木の鳥居があった、とあるから、もともと山岳仏教は神仏習合なのである。ここから勝尾寺まで三十六町、一町ごとに道標があり、そのいくつかは現存する。これはわが国に残る最古の参道石標なのだそうである。
宝治元年といえば、三浦泰村が北条時頼に討たれて(宝治の合戦)、鎌倉幕府の北条執権独裁政治が始まる年である。討たれた三浦氏は、傍流が辛うじて余命をつなぐが、足利尊氏が兵を挙げると、足利方について北条へのリベンジを果たし、大領地を安堵される。その領地を今、三浦半島という。しかし、足利氏が勢力を失って戦国の世に入ると、北条早雲の再リベンジに遭って、永正13(1516)年、三浦氏はついに新井城に滅びる。その城跡が現在の東京大学理学部付属臨海実験所である(東大動物学科の学生実習は、ここに合宿して行われる、だから、私はこの話だけ特異的に詳しいのである)。ここを「油壺」と呼ぶのは、落城の時、三浦道寸主従の流血で、湾が油を流したような様になったためだという。その道寸の辞世、「討つ者も討たるる者もかわらけよ、くだけてのちはもとの土くれ」。うーむ、無常だ。
●091018 阪大吹田キャンパスの西門/千里門前を北上する道(府道119/120号)が、旧小野原街道だということは、080401に書いた。ただし、旧道は千里門の北で現道より西に向かう。正確にいうと、現道は、それまで北西に向かっていた進路を、洋菓子屋デリチュースのところ(つまり吹田市と箕面市の市境)で真北に変更して、国道171号小野原交差点に向かうが、旧道はそのまま北西に走って西国街道(茶色の特別舗装がされている道)に斜めに合流するのである。合流点は小野原西2-1あたりか。なぜわかるかというと、この地域の鎮護社、小野原春日神社の前に、この旧道が断片的に残っているからである。今日はこの春日神社の秋祭りで、西国街道沿いの旧家の軒下には、祭礼提灯がずらっと掲げられている。
PS. その旧道はつい2年くらい前までちゃんとあって、今行われている宅地造成の開始とともに失われたのだ、という話を小野原在住の同僚から聴いた。
●091001 峠シリーズ5。峠シリーズを連載中、中環なら、まさに阪大(豊中)正門前の峠を忘れちゃいかん、とのご指摘があった。私がよく参照する地図ソフト「カシミール」で標高を見ると、正門前が55m、阪急電車の線路が32mなので、500mで23m上る、5%近い急坂だ。確かに正門前は峠である。この峠、昔何と呼ばれていたのだろう。知りたくなって明治の地図を見る。まず中環の走路を探す。それはすぐわかった。ここは刀根山村の村地内で、西端に金坂池、東端に二尾池がある。これらの池は現存し(二尾池=豊中市民病院前の小池=は、1994年までは病院の敷地全部を含む大池だった)、中環は両池の南端を通っているからである。ありゃ、そこに道は描かれていない。この付近の主要道は、金坂池から中環を横切り、フレンドリー西側の路地となって南下していく旧能勢街道で、中環の走路の前身はないか、あったとしても刀根山村地内の村道だったことになる。だから正門前の「峠」に固有の名はなさそうだ。名づけるなら、能勢街道を南下する旅人が金坂池を過ぎて左手に見る丘(標高約65m)の名をつけるだろうが、これが当時何と呼ばれていたかはわからない。丘上の建物の名をとって「ラフォーレ峠」と呼ばれていたろうか。んなわけない。(妥当な線は「金坂」か。だからこそ路畔の池に「金坂池」の名がついたのだろうから。)
●090922 峠シリーズ4、岡の辻峠。通勤時には迂回してしまうが、兵庫県道68号の日生中央駅付近は小ピークをなしている。ここを岡の辻峠という。本来の丹州街道・岡の辻峠は、駅から南に約100m、ケーズデンキの駐車場の南東崖上に、ゴルフ場(毎年4月に男子ツアー「つるやオープン」を開くスポーツ振興山の原GC)の外周道路の北端として現存する。ただし、辻の南行はゴルフ場の中になり(9番ホールの東側の道)、北行はケーズデンキ以前にテニスコートを造るときに削平されて失われている。ここがどうして現地と分かるか。ここが頂点となる地形のほかに、多数の地蔵が道沿いに並んでいること、享保十二年の刻銘のある石塔、浄瑠璃竹本光太夫の顕彰碑が建っていること、ここに川西市と猪名川町の市町境が走っていることとからである。行政境界というものは、川、尾根などの自然地形か主要道かに拠ることがほとんどで、いったん定められた後は、容易なことでは(その道が無くなったくらいでは)変わらない。なお、丹州街道北行は、この後日生中央駅北のR&Bセンター室内プール北の池(菜洗池)畔を通って北上し、大部(おべ)峠、民田(たみだ)八幡社、森上(もりがみ)を通って篠山(ささやま)に至る。この道は、近畿自然歩道としてハイキング向きに整備されている(年賀状2000参照)。
●090915 峠シリーズ3、中山峠。国道173号の畦野・一の鳥居の間は、結構な勾配の上下がある。ここを中山峠という。本来の丹州街道・中山峠は、ここから西に約400m、川西ゴルフクラブの16番ホールのティー付近に当たる。かつての丹州街道は、北から南へ小童寺(080601参照)の東の谷を下り、文殊橋を渡り、田んぼの中を通って、川西GCのクラブハウス前を通り、10番ホール・11番ホールと12番ホールの間の道を通って、このピークに達する。ここから南へは、グリーンハイツ光陽の駐車場に出て、市民体育館の階段下を南下する。
どうしてわかるかというと、上記の田んぼの中で農作業をしていたオーバー80のオジイサンに教わったからである。オジイサンは「昭和13年7月5日の集中豪雨で、一庫大路次川が氾濫して、東中橋、多嘉橋、文殊橋がみな流された。今立ってるここも、文殊橋から200mくらい離れているけれど冠水した。それで水防ダムを作ろうということになったが、大東亜戦争でそれどころではなくなった。戦後になって、昭和28年9月25日の台風で、また大氾濫した。それで再計画。それで出来たのが今の一庫ダムだ」という話もしてくれた。洪水はそれぞれ71年前、56年前のことである。エライ記憶力だ。(そのさらに71年前はまだ維新前だから、昭和13年頃のオジーサンは江戸時代を覚えていたわけだ)。
この立ち話をしていた地点付近で、丹州街道は一庫から山下、見野を通って南下する道と合流する。その合流点にかつて立っていた道標が、今、その地点から真南に約7km離れた川西能勢口駅西隣の栄南団地の敷地内、管理事務所前に移されて立っている。なぜわかるかというと、石柱に「左 忠孝山小童寺辺(へ)、右 畦野山下一庫ゆもと辺」と彫られているからである。「一庫ゆもと」とは摂津三湯の一つ、今はなき「一庫温泉」のことだ(080914参照)。
●090909 峠シリーズ2、横山峠。国道173号の鼓滝・滝山間は、相当な勾配のピークとなっている。ここを横山峠という。本来の丹州街道/能勢街道・横山峠は、ここから東へ約200m、兵庫県川西市鼓滝1-15-17と大阪府池田市古江町1-350の間の辻に当る。東側は東海住宅(株)管理の駐車場だ。能勢電鉄鼓滝駅東側の道路を南に登り切ると、ここに出る。全方位に向かってかなり急勾配な坂のピークで、峠であることを実感する。この峠を過ぎて南下すると、約100m先で道は終わり、南端は崖になって下れない。しかし、明治18年の地図には、等高線の密集を貫いて道が描かれているから、かつてはここを下りる(池田から北上すれば登る)道があったはずである。崖の法面は草ボウボウで、道の跡すら探せない。
●090901 峠シリーズ1、島熊山。1970年の大阪万博開催のため、伊丹空港から万博会場に直行する弾丸道路(今の中央環状線)を作るとき、邪魔になった島熊山はあえなく削平されてしまった。しかし、そうはいっても、この地域一帯の大きなアンジュレーションは消されようもなく、西から来れば千里川を越えた桜の町6丁目付近から、東から来れば上新田橋付近から上り坂になり、緑ヶ丘2丁目あたりがピークになる。本来の島熊山頂は、その北約200m、豊中市立少年文化館の西側駐車場内の三角点位置がそこである。標高116m。かつて「玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山路越ゆらむ(万葉集巻12、3193)」と歌われたこの山頂からの眺望は、周囲の建物のために今は全くきかない。それを偲びたいなら、中環沿いに走る大阪モノレールに乗って、少路と千中の中間点で南望されたい。晴れていれば大阪湾まで望める。そのモノレールが、千里中央-少路間で金縛りにあって立往生することが数年に一度ある。これを「万葉の呪縛」という(冬、レール面が凍って滑って坂を登れないだけだ、という人もいる)。
●090829 エコ意識で、というより流行に乗せられて、HVを使い始めて1か月。出勤時の燃費最高記録をねらう毎朝のゲームがマイ・ブームである。このゲームの勝負を決めるのは上り坂で、その前の平地で加速をつけておき、坂をアクセルもブレーキも踏まず乗り切れれば、高得点をゲットできる。40km/L超も夢ではない。さて、私の標準出勤路の県道68号→国道173号→国道176号→中環(府道2号)には、北から中山峠(畦野−平野間)、横山峠(鼓滝付近)、島熊山(少路付近)の三大難関がある。今朝は絶好調だった。ところが、最後の最後、僅かながらの上り坂、山田上の跨道橋の手前で渋滞停車してしまい、結局、39.8km/Lにとどまった。新記録を逃した。ぐやじー。ということで、今後しばらく峠シリーズを続ける。
●090815 池田市西本町の寿命寺。境内の碑には医王山神願院とも記される。きょう、皇室との由緒を示唆する紫色の幔幕が張られて盂蘭盆会が営まれている。呉服橋東南詰にある町なかの小寺だが、実は本当に皇縁が深い。天平勝宝元年(749)、聖武天皇の勅願により行基上人が開山したと伝わる。勅願寺、行基上人とくれば、これはやはり猪名川の治水のための布施屋が起源なのだろう(参照)。それを裏付けるように、寺は巨大な木造の人形ならぬ竜形を蔵する。竜は川の象徴である。現在、この竜形は雨乞竜と呼ばれているが、おそらく本来は逆で「雨な降りそ、川な溢れそ」の懸願だったろう。医王山という山号は、応神天皇の御代に呉国の織姫がこの地に渡来した際、船とともに淵に沈んだ薬師如来像を行基上人が引き揚げて本尊とした、という故事に因む。この伝説は、上人の指揮の下で猪名川の浚渫が行われたことを明示している。ただし、その像が現存するわけではない。現在の本尊は永禄二年(1559)からの阿弥陀如来像。現在の本堂が見るからに新しいのは、旧本堂が阪神震災で崩壊したためで、その前はいかにもいかにもな古刹であったときく。
●090621 面倒な会議が開かれる阪大本部の建物は丘の上に建っていて、気の進まぬ中出席する教授らを、一層億劫がらせる。建物を建てるとき、なぜ削平しなかったのだろう。答え、この丘に三角点「山田上」が設定されていたからである。日本の測地の基準点だから、匆々簡単に削平はできない。明治の昔、陸軍陸地測量部(今、この測量部員の辛苦を描いた浅野忠信主演の映画「剱岳—点の記」をやっている)は、隣の「芝」三角点(現豊中市千里北町、海抜133.8m)から見渡せるこの山頂に、海抜78.9mの三等三角点を設定したのである。その三角点、現在はどうなっているだろう。もう見通せないから廃止した? いやいや、ちゃんと現存する。ICホールとたけのこ保育園の間の小高い竹林の中に、立派な標石がある。
●090612 当研究科の駐車場にはいろいろな線が錯綜していて、車をどこに駐めたらいいのか迷う。ふつう一番新しい白線に従うが、休日などで空いていると、古ーい黄線に従って駐めることがある。そうすると、ふしぎに希望が湧いてくる。今夕は新任教授歓迎会で、この駐車場でBBQパーティが開かれた折、古参教授に黄線の由来を聴いたところ、謎は解決。ここは1970年の万国博覧会の駐車場だったところで、黄線は「人類の調和と進歩」の夢に満ちた青少年を乗せた観光バスを駐めるレーン表示だったのだ。まる40年経過して、黄線は磨耗したが、希望は磨耗していなかった(決して「バス用レーンで幅広だから」などという単純な理由ではなかろう)。
●090601 大阪のメインストリートといえば御堂筋である。その御堂筋を梅田から北に伸ばし、江坂、千里を通って箕面萱野に至る大道、つまり大阪の南北軸を、国道423号線(新御堂筋)という。ところが、先日の土砂崩れで、いまだに片側交互通行状態が続く(090320参照)、池田から亀岡に北上するしょぼい山道も、国道423号線である。どうなってんの。
実は、423号は、箕面萱野から以下のような苦節の道をたどるのだ。萱野で西に直角に曲がり、約4.5kmの間国道171号に寄生する。171号が石橋阪大下交差点に来ると、こんどは北に直角に曲がって約3kmの間国道176号に寄生する。176号が池田西本町に至って西折すると、176号から分かれ、今度は173号に寄生して北上する。そして約1kmの後、池田木部でやっと再独立を果すのである。梅田から箕面までの片側3車線(一部2車線)の高速道路並みの幹線産業道路は、ここに至って片側1車線の田舎の生活道路となり、久安寺の土砂崩れ現場でついに片側交互通行になる。ああ、おいたわしや。しかし、管理上の都合とはいえ、この屈曲した道筋をなぜ同じ名で呼ぶのだろう。
●090524 猪名川にかかる絹延橋は、何年も前から架け替えられそうでいて、なかなか架け替らない。今の橋は昭和6年(1931)の竣工で、80年も経つとコンクリが磨耗して、礫が出て来ている。橋柱のコンクリも、剥れかけが落ちないよう、太い針金で縛ってある。その針金も、真っ赤に錆びた年代物だ。「何年も前から」っていったいいつから? 実は、竣工後間もない昭和13年に猪名川の氾濫があって、そのとき川床の拡幅が建議され、すでに橋の架け替えが計画されているのだ。しかし、戦雲が近づき、鉄は軍艦に回され、工事計画は頓挫した。それから70余年、ここまで生き残ると、これはもう文化財で、高さ50cmほどの妙に低い欄干にも、危険より滋味を感じる。
●090517 国道173号線を北上して多田、平野を過ぎると、天に聳える紅櫺白壁の天守閣が正面に現れる。大阪青山大学の博物館である。外見は上々の趣味ではないが、内容はいい。
とくに校地内の花の季節に合わせて開かれる 特別展には、見ものが多い。
この地を一の鳥居という。ここにかつて、妙見宮参道の最初の鳥居が建っていたことに因む。今はない。いつまであったかというと、1995年1月17日までである。だから、それより前に発行された写真集には載っている。いつからあったかはわからない。その鳥居の左柱に寛政六年一一月(1794年11-12月)再建と彫られていたから、先代の鳥居がそれ以前にあったはずである。
さて、その鳥居が厳密にどこにあったか知りたくなり、国道173号と477号の分岐点近くの、一番古くからありそうなお宅のインタホンを押して、「卒爾ながら、お尋ね致したき儀、これあり候」と、威儀を正してうかがったところ、おばあちゃんが出てきて、「教えて進ぜませう」。即確定。今「お宿ねっと、京都・烟河温泉」のブリキの看板の立っている位置だそうである。その朝、震度6の激震で「能勢妙見山」の額束が載る石の貫(ぬき)が折れ、鳥居は大きく左(西)に崩れた。その鳥居は今、そこから約1km北方、能勢カントリーゴルフクラブの入口に移設再建されている。折れた貫以外は寛政の石がそのまま使われている。
●090429 吹田キャンパスから北東に5.5km、名神高速沿いに、水濠に囲まれた美しい緑の丘がある。太田茶臼山古墳といい、古墳時代中期の前方後円墳である。古くこの地を藍野といい、現在の藍野病院に名を残す。日本書紀に「三嶋藍野のみささぎ」とある継体天皇陵はこれだと比定され、皇室陵墓地に指定されて濫りに立ち入ることはできない。だからこそよく保存されているわけだ。しかし、近年の調査で出土した埴輪のC14測定の結果で、時代が100年も合わず、これは継体陵ではないと断定されてしまった。では、真の三嶋藍野陵はどこなのか。その東1.5kmにある今城塚古墳こそ、それだということになった。だが、こちらは、織田信長が一部を崩して砦を作ったりした結果(今城塚の名はその砦に由来する)保存が悪く、宮内庁から見放されて、出入り自由のただの高槻市営公園になっている(ただし現在は整備工事中)。
古代史の有力説によれば、天皇家は万世一系ではなく、実在が確かな天皇では、崇神天皇から仲哀天皇までの崇神朝、応神天皇から武烈天皇までの仁徳朝、継体天皇以降と、少なくとも三王朝があるという。となると、継体天皇こそ、現天皇家の祖ということになる。おーい、宮内庁さーん、一番肝心なご先祖様の墳墓を保存しなくていいんですか。
●090403 新入生歓迎のお花見で、連日どんちゃん騒ぎを繰り返しているわが阪大豊中キャンパス図書館前の庭園「浪高庭園」の一角に、黒御影石の碑が建っており。そこに「浪速の友に」と題した詞が刻まれている。
麦生の床に百鳥の/声は平和をなのれども/ベルダンの野に夏草や/強者どもの夢の跡/血にコクリコの花咲けば/文化のほこり今いづこ
これが阪大の前身、旧制府立浪速高校の校歌である(昭和4年)。全国寮歌祭などでは、一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」などとともに歌われる(といっても、旧制高校生が高齢化して、この種の催しはもう絶えたかもしれない)。ほとんど意味をとれないが、なんとなく、世の中の堕落を憤慨してるらしい、ことくらいは伝わる。それは「嗚呼玉杯」と同工である。
嗚呼玉杯に花うけて/緑酒に月の影宿し/治安の夢に耽りたる/栄華の巷低く見て/向ケ岡にそそり立つ/五寮の健児意気高し
誤解してはいけないのは、玉杯で緑酒を飲んで治安の夢に耽っているのは栄華の巷=世間であって、一高生はそれを低く見て「嗚呼、けしからん」と怒っているのである。冒頭だけ聞くと、一高生が酒飲んでるみたいだが、内容は全く逆である。とはいいながら、実は、弊衣破帽の一高生が、大酒あおりつつ「シュトルム・ウント・ドランク、アイン・ツヴァイ・ドライ」とか叫んで、この歌をがなりたてていたに違いないのだが。浪高生も同様に、中山池畔で蛮声を張り上げて「麦生、ムギュー」と高歌放吟したのであろう。中山池は、別名を「叫び池」という。
●090401 通勤路、国道173号池田市内古江橋の北詰に立つ道標。北面下半に右妙見左多田院、西面に安永三甲午年八月とある。つまり西暦1774年9月、もう200年以上も前のものだが、深く刻んであるためか、石がいいためか、はたまた北面上半に刻まれた南無妙法蓮華経のお題目のおかげか、つい先日立てられたばかりのような明瞭さだ。しかし、1774年といえば、アメリカ合衆国はまだ地上に存在しない。翌1775年の今月19日、世に「1発の銃声が世界を変えた」といわれるレキシントンの戦いが起こり、これを緒戦として英国からの独立戦争が始まるのである。この道標はアメリカより古い。
●090322 通常私が通勤に走る国道193号線が、前項の国道423号線と交わる地点を木部(きべ)という。木部とは、朝廷において植木を扱う部門/部局員をいう。文章記録を扱う文部(ふみべ)や、衣服制作を扱う服部(はたおりべ=はっとり)と同様の職名である。つまり、ここは上古からガーデナーの村だったわけで、今でも日本有数の植木の産地である。国道の両側のあちこちに畑があるが、ずいぶん成長の遅い稲だなと思ってよくみると、稲じゃなくて杉だったりする。杉畑とか椿畑とか、よそではあまり見ない光景である。戦国時代、足利幕府三管領の一家、細川家の所領だったこの地ではボタンが主力商品で、「細河の牡丹」は全国ブランドだった。
●090320 私は、通勤に急ぐとき(病院の外来受付に診察券を出すときとか、早朝から行事があるときとか)、国道423号線(=旧亀山街道)を使う。この国道は池田市木部より北は山道である。その道が3月16日の雨で土砂崩れを起こし、通行止めになった。大阪から来ると池田市伏尾の久安寺で折り返さねばならない。しかし、今日はお彼岸だし、野次馬がてら、いつも素通りしてしてしまう久安寺を訪ねるいい機会と思った。広い境内は、春はボタン、シャクナゲ、ツツジで満たされ、秋はモミジで彩られる。北摂有数の花の寺として名高い。
大澤山久安寺は真言宗の寺院である。開創は平安時代の725年で、真言宗の開祖弘法大師空海の生誕の50年前だから、もちろん最初から真言寺院のはずはない。行基大僧正が開いた前身「安養院」は、このカリスマ土木技師が、昆陽施院(昆陽寺の前身)はじめ近畿各地に多数開いた布施屋(土木工事事務所兼旅館)の一つであろう。つまり、余野川の治水と亀山道の治山は、北摂千三百年来の課題なのである。(080501参照)今回の土砂崩れでこの寺が国道復旧工事の基地となったのは、久安寺の本来の姿といえよう。
●090307 日本の地形図は、かつて5万分の1が基本だった。(今は2万5千分の1が基本)。その地図で、「大阪西北部」の北、「京都西南部」の西の図面のタイトルは、「池田」でも「箕面」でもなく、「広根」という。(2万5千分の1でも同様に、「伊丹」の北、「高槻」の西の一枚は、「池田」でも「箕面」でもなく「広根」である)。広根ってどこだ? それは現猪名川町内の一字(あざ)名で、猪名川町民も大多数は知らない。つつじが丘住宅のあるところだが、つつじが丘は知っていても、広根は知らない。たしかに江戸時代には独立した「広根村」があった。しかし、5万分の1地形図が陸軍陸地測量部で編まれ始めた明治25(1892)年には、広根はもう「中谷村」の一字でしかなかった。なんでそんなマイナーな地名が代表になった(今もなっている)のか、誰か知らないか。この地に多田銀銅山があることと関係があるか。
●090228 国道171号下り線、萱野1丁目のブリジストングリーンピット地点で右に入る道は、旧巡礼街道(西国33霊場のうち、23番勝尾寺から24番中山寺への道)の脇道である。まっすぐ西進すれば池田呉服橋に到る(途中一方通行あり)。阪急箕面線踏切を過ぎたところでふと右手を見ると、ぼーっと白い光が。な、何だあれは、亡霊か。いや、阿比太神社(箕面市桜が丘1丁目)である。スサノオノミコトを祀る式内社(=927年に編まれた「延喜式」に載っている神社)で、創建は奈良時代以前(社伝では応神天皇の御代)というチョー由緒ある神社だ。阿比太連(あいだのむらじ)は、日本書紀の欽明天皇本紀に、百済へ派遣された外交官として名が見えるそうで、箕面地域の古代豪族ですな。しかし夜間照明はいらないだろう。闇昏々たる参道の奥に鳥居と祠堂のみがほの白く浮かび上がるさまは、相当に不気味である。夜中に参詣する氏子はいまいし、子の刻参りなら灯に照らされては呪いも利くまいし。
●090214 急に暖くなった。いはばしるたるみのうへのさわらびのもえいづるはるになりにけるかも(志貴皇子=天智天皇の子、桓武天皇の祖父)、なーんて、昔習った万葉秀歌を口ずさんだりしちゃう。さてその垂水(滝の古語)とはどこかというと、阪大の地元吹田市に実在する(吹田市垂水町1-24)。実は、私が阪大に赴任して貸与された官舎は吹田市円山町で、社はそのすぐ南にあったのだ(私はこの官舎で阪神大地震を体験した)。あの神社に滝なんかあったっけ? 奥の方に、いかにも作り物的な細い水流があったが、あれのことだろうか。いや、摂津名所図会(1798)からは、かつては結構な水量があったことがうかがえる。ワラビもとれたろう。
大化改新(645)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)は飛鳥からNHK大阪放送局前に遷都した(652)が、蘇我一族の呪いか、旱魃が起きて難波宮の水が枯れてしまった。そのとき、この地から樋を引いて宮を救ったので、垂水の名を賜ったのだ、と伝わる。でも、ここから宮まで直線距離で10kmもあるから(確かに高低差はあるにしても)、史実ではなく、垂水の名の方が先にあったのだろう。しかし、孝徳天皇が死去すると、重祚した斉明(=皇極)女帝は「水が無うてはよう住みまへん」といって、都を飛鳥に戻してしまった(655)から、仮に樋が実在したとしても、使ったのはほんの1−2年である。残されたのはワラビである。以後水田(=吹田)村には、早春にわらびもちを贈る風習が生まれ、これがバレンタインデーの起源となった、という話は、ない。
●090124 以前、吹田の名産に、くわいとマロニーを挙げたが(フード項080921,
0928参照)、ビールを忘れてはならぬ、とのご指摘を受けた。そうであった。アサヒビール吹田工場は、JR吹田駅の隣にある。というより、工場の構内に駅がある。1889年11月、同社の前身、大阪麦酒会社がこの地に工場を開き、技師生田秀がドイツ留学の成果たる先進醸造技術をこの地に移植した。三島郡吹田村醸造所という。以来、日本のビール文化は、吹田(と目黒と札幌)から発信された。同市域にあるよしみから、アサヒビール社は毎夏、阪大教員を招いての会社/工場案内会を開いてくれている。先日、見学コースがリニューアルしたらしい。HPを見ると、ワールド・ビア・コレクションがオープンしたとある。上の工場案内会、私には「ただでビールの飲める日」としてしか位置づけられていなかったが、今年はぜひ再訪せずばなるまい。
●090111 モノレール阪大病院前駅は、単に病院に来院するための実用駅で、それ以外にない。と思ったら大間違いである。下車東へ徒歩5分のところに、現代日本を代表する建築家、安藤忠雄氏の出世作「光の教会」=日本キリスト教団茨木春日丘教会がある。コンクリート打ちっ放しの簡素な礼拝堂の東壁は、十文字に切られていて、外に通じる。ニス塗りなしの狭い木製ベンチに背すじを伸ばして座り、背後の素朴ながら典雅なパイプオルガンが堂に響き、かの十字壁から陽が差し込むとき、天使が来臨する。ただし、めちゃくちゃ寒い。あるじの軽込昇牧師自身がそういうのだから間違いない。私が礼拝に尋ねたこの日も、師が朝5時から石油ストーブをガンガン炊いてくれていたが、まだ底冷えがした。おそらく夏はめちゃくちゃ暑いだろう。信仰篤き者は、そんな瑣末なことは問題にしない。でも、私は信仰薄き者なので、真夏は遠慮することにしたい。
●090104 ご近所2題。雨森山は、我が家がその麓にある、すぐ隣の山である。先日町内会でルートを教わり、正月に家族で登った。338mという低山ながら、山頂からは金色に光る大阪湾が望まれ、北へ灰緑色の六甲山が立ち起こっていた。昔、夏日照りに悩まされぬよう雨乞いをしたこの山は、今温暖化がこれ以上進まぬよう祈る山である。ジャスコ猪名川店の先の肝川神社は田力男之命を祀る古い社で、杉木立の中、国指定重要文化財の社殿がある。その社殿はすっぽり覆屋に囲まれていて、ご神体は拝めなかった。だからこそありがたいのであろう。
●081207 通勤路の国道173号線、一の鳥居付近の4車線が、7月から来年の7月まで超長期の予定で2車線化され、朝な夕な大渋滞している。舎羅林山の宅地開発に伴う工事だが、このたびのサブプライム大恐慌が襲来した10月以降、工事は止まり、今は誰もいない。工事車もない。なのに道は2車線閉鎖のままだ。怨嗟の声が全山に響いている。実はこの山の宅地開発は1994年に始まり、バブル崩壊で1998年から中断していたのが、やっと景気が持ち直して今夏再開されたところだった。さあ、もうこの開発は断念すべきだろう。舎羅林とはシャラの木、つまり釈尊涅槃の地にあって、入滅とともに一斉に花を散らした木の林、すなわち仏滅聖地の意であり、その聖なる舎羅林を重機で削平する不動産屋への、これは仏罰であろう。南無釈迦牟尼仏、早く4車線に戻してくださいますように。アーブラウンケンソワカー。
●081130 池田市西本町の「池田中央映画」は呉羽橋東詰にあって、かつてここが池田町の中央であったという矜持を名に負う。池田市室町の「池田中央市場」は、阪急池田駅の直近にあって、ここが池田市の新たな中央になるという自負を名に表わす。ところが、同市五月丘のマンション「池田セントラル」はそのいずれでもない。本町からも駅からも遠い。同市鉢塚の「池田中央教会」はさらに遠く、同市緑丘の「池田中央公園」はもっと遠い。うーむ、池田市の中央は一体どこだ。
●081116 阪急宝塚線の駅名には歴史を感じさせるものが多い。わが乗換駅「川西能勢口」駅は、川西市誕生前はただの「能勢口」だったのを、昭和40年市制発足10周年のご祝儀で市名を冠した。次の「雲雀丘花屋敷」駅は、元々二つの駅だったのを昭和36年統合したとき、力関係が互角だったので両者並べた。次の「山本」駅も統合駅で、昭和19年鉄の供出命令で「山本」駅と「平井」駅の二駅が統合されたのだが、こちらは引分けにならず平井が負けて消えた(ただし、山本駅内の表示にだけは、カッコ書きで平井の名が残されている)。「蛍池」駅は、私が阪大に赴任したころは「大阪国際空港前」と併記され、アナウンスでもそう高らかに宣言されていたが、関空ができて「国際」が落ち、平成9年モノレール「大阪空港」駅が開業して空港最寄駅でなくなり、それも消えた(橋下知事が「伊丹空港廃止論」をぶち上げたせいではない)。
●081109 通勤の途上、といっても自宅を出てすぐのところに、川西市郷土館がある。ここに二つの大正建築がある。
一つは、かつて(平安時代から江戸中期まで)この地が産銅で栄えた歴史のエピゴーネンで、昭和10年代まで存続していた吹き屋(精錬業者)、平安(ひらやす)家の邸宅である。いかにも長者の家作で、自宅の庭先で精錬をしていたのだ(逆か、工場の一角に社長の自宅があったというべきだな)。そして裏庭に鉱滓を捨てていた。だから、今でもこの郷土館の裏手は鉱石のガラでいっぱいである。昭和といわず明治中期になれば、大規模精錬もすでに行われ、それこそ古河鉱業の足尾銅山鉱毒事件(明治30年代)も起きていたのだから、昭和の御代にそんな処理をしていていいのかという気もするが、そこが田舎のいいところ、小規模で問題にならなかったのだろう。住宅は数寄屋造りの粋な建物で、柱とか廊下とか、目立たぬ所に金がかかっている。私が子どもの頃、毎年夏休みに行った足利の母の実家(油屋)がこうだった。あれも、残っていれば文化財だったかもしれぬ。
もう一つは、明治の実業家平賀義美氏の私邸で、これは中橋西詰近くにあった大正7年築の洋館を、市が平成2年にここに移築したものだ。平賀氏に恩義のある鴻池組が利益抜きで解体・移築・復元の工事を請けたという。氏は日本最初の工学博士で、わが国染色化学工業の祖といわれる人である(関西大倉学園の淵源、大阪商工学校の創立者でもある)。英国留学の経験から、猪名川河畔に英国風洋館を建てた。寝室はベッド、トイレは洋式である。氏は、成金といえば成金だが、決して嫌味な趣味はない。むしろ質素で清々しい住宅である。階段渡り廊下の先に離れがある。それは化学実験室だという。嬉しいではないか。ダーウィンもニュートンも研究は自宅で行った。その英国アマチュア科学の伝統が継承されていたのだ(まあ、科学は金持ちの道楽だったわけだな)。
なお、郷土館に敷地には、もう一つ「ミュゼ・レスポワール」という美術館が併設されている。
●081031 国道171号線は、とくに萱野より東にくると、ラブホ街になる。阪大吹田キャンパス直近の府道2号線との交差点(清水)あたりも、キッチュな建物が林立している。豊中キャンパス直近の蛍池ラブホ街は、大戦後の進駐軍慰安施設の後裔であり、立派な?歴史的基盤があるが、茨木のラブホ街にも歴史的由来があるのだろうか。一つ考えられるのは、旧西国街道の萱野宿—郡山宿間の歓楽施設起源で、そうだとすると平安時代以来ということになるが、そんなに古いか? 単に阪大生と阪外大(現阪大外国語学部)生の需要を満たすための平成起源か?
今宮交差点近くには、○AHAYAというハワイアンリゾート風のラブホがある(国道から見た外観が、である;内装は知らない)。さて、その隣に○roSという1球1円のパチンコ屋ができた。○AHAYAには大打撃だ。なぜかって、パチンコ屋の駐車場入口には、1-2名の警備員が常に待ち構えていて、入庫車をいちいち親切に誘導してくれる。しかし、ラブホ客は、一般的にいって、警備員に親切に誘導されることを好まぬ、と思われる。また、ラブホの周囲には、なぜか知らぬが、深夜に空腹を覚える客が多いらしく、深夜営業のドライブイン・ファストフード店があるもので、ここにも○き家がある。○rosのせいで、○き家も大打撃だ。パチンコ客は、ドライブインの牛丼屋をとりわけ必要とはしないからである。081020
●081001 新聞に「猪名川町紫合で蕎麦の花が満開」とのどかな記事が載っていた。嬉しくなって見物に行く。結構捜した。やっと幾つか(一面蕎麦畑というのではなく、25m四方くらいの小畑がいくつも散在する)見つけて、写真を撮って帰ってきたら、なーんだ、我が家のすぐ近くの畑でも蕎麦を作っていた。この花が実となり、新そば粉になるのは年末頃か。そうしたら、地元の粉でそばを打ってみよう。
上の記事のうち「紫合」の地名は「ゆうだ」と読む。難読地名である。「ゆうだ」とは、明治以前の村落共同体(結=ゆい)が共同で耕作する田のことで、「結の田」である。だから「結の田」はあちこちにあり、この地に紫合山西鏡寺がある(今もある)ので、「紫合の結田」と呼んだ(紫合山とは紫の雲と紫の煙の合う山という、吉兆の山号)。それが時を経て、「しごう」の文字と「ゆうだ」の音が、ずれて組み合わさり、今に残ったというわけである。昔の「飛ぶ鳥の明日香」がずれて今に残り、「飛鳥」を「あすか」と読むのと同類だ。
●080920 能勢電鉄鼓滝(づづみがたき)駅から徒歩3分、銀橋東詰の「下滝公園」に、西行法師の歌碑「音にきく 鼓が滝をうちみれバ川辺に さくやしら百合の花」が立つ。落語「西行」にも登場する、法師若かりしころの秀歌である。
さて、鼓の音を立てる滝は、どこにあるのだろう。これには二説ある。「滝」という字は、現代日本語でこそ日光華厳の滝やナイアガラ大瀑布のように水が空中を飛び落ちる様を指すが、もともとの漢字の字義では急流を指し、別に大落差はなくてもよかった(漢和辞典をみてごらんなさい)。つまり、この付近の猪名川の急流そのものを鼓滝と呼んだのだとする説が第一。いや、猪名川畔にかつて落差のある滝が実在した、とする説が第二。第二の説の根拠は、能勢電鉄鼓滝トンネルの下り線側北出口の西方、谷あい川岸から30mほど奥に、昭和45年まで落差約5mの数条の滝があった事実である(写真も残っている)。そして、往古にはこの滝は猪名川に直接流れ落ち、鼓の音を立てていただろう、と説くのである。
そこで本日、滝口に当たる崖の上を探検してみた。探検といっても、そこは川西市鶯台二丁目の宅地で、実はただポコポコと散歩しただけだが。なるほど、今はコンクリートの擁壁がこれ以上の崩落を止めているけれど、かつては絶えず崩落して後退を続けていた(つまり昔の滝口はもっと川岸に近かった)ことが、容易に推測できるような絶壁である。川水面レベルまでは、50mくらいあるだろうか。お尻がムズムズしてきた。いや、今でも崩落の危険がないわけではない。だからこそ、崖際を「鶯さえずり公園」と称する非居住地帯にしている。というわけで、「崖の上のボニョボニョ」メタボ男の私は、第二の説を採りたい。
●080914 前回紹介した「摂津三湯」。その三つ目は、一庫(ひとくら)温泉である。わが家から、地図上の距離で1.5km。車で5分。ただし、今は平野温泉以上に跡形もない。
能勢電鉄日生中央駅から山下駅に戻るように 南下すると、一庫大路次川(ひとくらおおろじがわ)にかかる前川橋がある。ここから一庫ダムに向けて坂を登っていくと、「かに工房」の看板が出ている。以前は「一庫庵」とかいう豆腐屋だったな。それはこの際どうでもよろしい。
その「かに工房」の前に細い橋があり、対岸に渡れる。渡った右手の児童遊園、というか空き地を、一庫上ノ畑公園という。「摂津名所図会」によれば、ここに高楼造の泊屋と方丈の湯屋があった。背後の山は、頂に山下城址の残る城山。眼前に大路次川の渓流。悠々と静坐して沐浴すれば、まさに「幽邃閑寂、市塵を隔つるの勝邑」であったろう。今、跡形もないといったが、図会には石垣が見え、今公園の川岸沿いに苔むした古い石組が見える。これは当時からのものかもしれない。
●080907 摂津名所図会という江戸時代の旅行ガイドブックには「摂津三湯」という温泉が載っている。一つは言わずと知れた有馬温泉だが、あとの二つは今誰も知らない。その二つ目を紹介しよう。平野温泉。
能勢電鉄平野駅から国道173号線を200メートルほど北上すると、右手に広い空き地がある。数年前までホームセンター「サンシャイン」があったところで、その前身は「アサヒビール平野工場」、そのまた前身は「帝国鉱泉平野工場」だった。今ポツンと残る「三ツ矢サイダー」の塔がその名残だ(これについては以前書いた)。そのサイダー塔の先、草ボウボウの中に小祠が立っている。今はクモの巣に巻かれているが、これこそ1300年前、源満仲が住吉大社から勧請分社した「住吉神社」である。名所図会の右端に見える「住吉」がこれだ。図会では「住吉」の対岸に大きな「薬師堂」が描かれている。今そんな大寺院は見えないぞ。いやいや、これも現存する。国道に戻って、「ファッションセンターしまむら」の駐車場北東端から小道に入れ。侘びしい小庵があろう。そう、これが薬師堂の現在の姿だ。おいたわしや。
図会には描かれていないが、その小庵を越えて雑木林の中を分け入ると、小広い一角に出て、小野朝臣某々と刻まれた墓標群がある。小野妹子、小野篁、小野道風、小野小町、小野進二の、あの小野氏である(最後のは違うか)。道風なら柳の木がふさわしかろうが、残念ながら柳はなかった。やぶ蚊ばかりで蛙もいなかった。
さて、肝心の浴場はどこにあったのか。図会中の「浴室」は、ちょっと不思議な位置に描かれている。妙見参詣道(現在の国道173号線)に立ちふさがるように建てられ、参詣道はそこで左右に二分し、「浴室」の北側でまた合一するのである。そんな変な地理が今あるか? それが、あるのだ。国道から多田グリーンハイツに向かう西行路が分岐する三叉路(平野交差点)に立ち、北面せよ。右手に小道が下り、それが30m先で再び国道に合するのが見えるであろう。私は、この川西市平野3丁目17番地点(石田皮膚科医院地点)こそ、浴室跡だと比定したい。かつてこの周辺には24戸の温泉宿があって賑わっていた、と伝えられる。
なお、平野駅の北東側には「協立温泉病院」が威容を誇り、この地が摂津三湯の一つであった史実を、辛うじて今に伝えている。
●080901 吹田キャンパスに引っ越してから、私は通勤にはふつう大阪中央環状線で行くが、寄り道があって国道171号線経由で行く場合もある。そのとき、カトリック系のミッションスクール、聖母被昇天学院の前を通る。私はいつもこの「被」が気にかかる。
Assumptionとは、マリア様の死去についてだけ用いる語で(イエス様の死去はAscentionという)、マリア様は自分で天に昇ったのではなく、神様によって引き上げられたのだから「被昇天」だ、という論理なのだろうけれど、日本語ではそういういい方をしない。焼き飯は、飯が自分で焼いたわけではなく私によって焼かれたのだから「焼かれ飯」か「被炒飯」というべきだ、と主張したらヘンである。「忘れ物」だって「売り切れ」だって「忘れられ物」「売られ切られ」とはいわないのである。日本語が非論理的なのではない。日本語は、物についての形容であっても、物の立ち場からではなく発話者の立場から見て形容する、というのが論理なのである。つまり「被昇天」といういい方には、西洋語論理の匂いというか、南蛮ばてれん邪宗門の香り、が濃厚なのである。これがまた、高山右近や細川がらしゃのこの地、北摂地方に馴染んではいる。
●080816 研究室吹田移転記念シリーズ。前述の小野原街道は、小野原付近で直交する西国道沿いにも情緒があるが、山田東2丁目あたりも美しい(府道2号線から1本東の旧街道か、さらに東の山田川東岸の細道を歩こう)。町並み保存の法的規制のかかった地区ではないため、旧家と新築マンションとがモザイク状に交じり、一喜一憂することになるが、寺や庄屋クラスの豪農家では、焼杉の板塀や土蔵が、たとえ最近改修されたものであってもブロック塀とは違い、江戸/明治の香りを伝える。
●080805 研究室吹田移転記念シリーズ。小野原街道(080401参照)は、万博公園西(ピーコックの角)で五差路になっているが、このうち最も細い北行一方通行路こそが本道である。どうしてわかるかというと、今はサークルK裏手の名もない小さな調整池が、明治18年の測量図には街道東側に隣接する大きな溜池(阪大構内の「犬飼池」より大きい、千里門前に現存する「水遠池」に匹敵する)として描かれているからだ。「濁池」といった。
PS. 今日その濁池が埋め立てられていた。少なくとも120年は続いていたこの池の歴史は、今日終わった(080920)。 埋め立てではなく浚渫のようでもある。ぜひそうであってほしい(081103)。
●080608 源賢僧都(下記参照)が建てた寺は、東畦野にもある。その名も頼光寺(瑞雲山)。今は曹洞宗の禅寺で、関西のあじさい寺として名高い。今日はまだ早かったが、来週は見ごろだろう。満仲夫人(僧都の母)は幸寿丸が身代わりになってくれたとは知らず、我が子が死んだと思って悲しみで盲い、出家して法如尼となった。死んだはずの息子が名僧となって戻って来、仏恩を感じて発願した、と伝える。
●080601 頼光の四天王(080429参照)のもう一人のスター、大江山で酒呑童子を退治し、能楽「羅生門」で鬼を切った渡辺綱。その廟も川西市内(西畦野)にある。忠孝山小童寺。小さな寺だが、満仲の末子(ということは頼光の弟)、天台僧源賢(幸若舞「満中」では円覚上人)が、その幼き日、美女丸と呼ばれていた悪ガキの頃に、彼の身代わりとなって死んだ小童(幸寿丸)を弔うために後年建てたという由緒のある寺である(その因縁は以前書いたことがある)。だから幸寿丸やその父藤原仲光の墓があるのは納得だが、兄の家臣の墓もあるのである。この墓も満願寺の金太郎の墓と同様の文庫形をしている。
●080525 中環(府道2号線)桜の町二丁目交差点から府道43号西線を北上すると、創建年代不詳の古社、春日神社の前を通る。9世紀前半にはすでにここにあったと伝わる。この地域を桜井谷と呼ぶが、その名のよってきたる「桜井(桜の木の立つ井戸)」が境内にあり、かつては、住民がその水を飲料に使い、沐浴に用いていた。が、平成四年より禁じられてしまった。その井戸横に立てられた断り書きに、「科学・技術が発達したため、人々が自己中心的になってしまったので、飲用を禁じる」と書かれている。科学者のはしくれとして、科学発達→自己中心、自己中心→飲用禁という論理展開には疑問なしとしないが、神主に言わせれば、それを疑問に思うこと自体が科学の夜郎自大なのかもしれない。ただし、この神社は薬師社ともいい、祭神は少彦名神(薬師如来の神形)で、科学・技術を尊崇する神社のはずなんだけどね。
●080518 阪大宮山寮から東に細道をたどると、大聖山不動寺という、立派な鉄筋コンクリート3階建ての真言寺院に至る。1200年前、嵯峨天皇(在位809-823)の勅願で創建された寺で、菊のご紋章がまぶしい。堂央に鎮座ましますのは弘法大師御作の不動明王像(何度も戦火にあっているので元のものではなかろう)だ。平安初期の天皇が何でこんなところにお不動さまを勧請するのと思われるだろう。その通り、もとは梅田駅の南、菟我野町(今、ホテル法華クラブのある場所)にあった。そこが酒池肉林の歓楽街の真っ只中になり、およそ心静かに仏恩を偲ぶ環境でなくなったため、昭和41年こちらに移転したのである。
嵯峨天皇と弘法大師とはお友達で、橘逸勢とあわせて世に三筆と称することは、諸賢ご存知であろう。昭和の移転に際して、門柱に「大聖山」と揮毫した当時の和尚は、さぞかし緊張したに違いない。
日本書紀に「菟我野の鹿」という話がある。仁徳天皇がこの地でことのほか愛していた白鹿が、猪名県佐伯部という乱暴者に射ころされた。天皇は大層悲しんで小堂を建て、白鹿の霊を祀った。その小堂がかつての菟我野不動寺にあった。それもこちらに移転している。堂の中には一対の鹿角に何かの束が掛けられている。これがこの小祠の御本尊らしい。矢のようだ。犯人は、その名から猪名河畔池田五月山(佐伯山ともいう)周辺の住人のようだから、移転地の選定といい、矢を本尊として祀ることといい、殺された鹿を弔う場としては多少の違和感を覚えないでもない。
●080505 0501記事の「水害紀念碑」の碑文を書いたのは、梅崖山本憲(1852-1928)という人です。山本梅崖は自由民権運動の志士の一人で、大阪天神橋に漢学塾を開きながら、文筆をもって民権運動に参加していましたが、大阪事件に連座して獄に下りました。
大阪事件とは、次のような事件です。そのころ朝鮮は清を宗主国とする半植民地で、独立を果たすにはこの傀儡政府を覆して「隣国日本で成功した明治維新の朝鮮版」を起こすべしと考える派がありました。金玉均はその一人で、1884年12月にクーデタ(甲申政変)を起こします。が、失敗して日本に亡命しました。自由党左派はこの金玉均を援け、朝鮮に再度クーデタを起こそうと、ひそかに武器の準備をしました。それが実行寸前に露見して大量逮捕者を出したのが、大阪事件です。梅崖はこのとき「朝鮮自主を告ぐるの檄」というアジ文を書き、多数の同志を塾生としてかくまっていた罪に問われました。
そう簡単に事が運ぶわけはない、と思うでしょうが、そうでもないのです。自由党のねらいは、クーデタが成功せずとも、朝鮮に混乱が起こりさえすれば清が出兵し、清が出兵すれば日本も出兵して日清戦争が起こるだろう、ということでした。日清戦争が起これば、清国内でも開明派が台頭し、「明治維新の清国版」が起こるだろうという構想、というか大陰謀だったのです。実際の歴史が、細部こそ違え、ほぼその通りに進んだことはご存知でしょう。このように、当時の自由民権運動は後の民主主義運動とは似て非なるもので、日本の国権拡張運動という側面を持っており、後の帝国主義に通じていきます。
さて梅崖は、1889年に大赦を受けて出獄した後もこの構想に関わりつづけ、清の開明派多数を留学生として日本に呼びます。この水害紀念碑は、清の開明派康有為が、「明治維新の清国版」たる戊戌変法(1898年6-9月)を西太后によって打破され、亡命して梅崖の元に転がり込んでくる、まさにその直前に書かれたものです。
●080501 私が毎朝通勤で通る国道173号線、大阪府(池田市)と兵庫県(川西市)の県境に、猪名川を見下ろすようにして、高さ3mほどの尖石塔(オベリスク)が立っている。正面に「水害紀念碑」とある。明治29(1896)年8月30-31日の台風襲来時に、猪名川、余野川が氾濫し、土砂崩れ、家屋田畑流失の大被害が発生した。この水害を忘れまいと、近隣七村長が翌々年に建てたものだ。もう100年以上経っているが、側面の碑文も鮮明で、「最近山林の乱伐がひどく、いつかこういう惨禍を蒙ると皆恐れていた(下の抜粋下線部)」と、痛恨と反省が祈り込められている。
そのオベリスクの対岸は鼓ヶ滝で、かつて数条の滝が落ちていたという崖面はいまコンクリ擁壁で覆われ、滝壺の跡地には15階建てマンションが建っている。碑の脇に立ってこれを眺めると、集中豪雨があったら擁壁もマンションも一たまりもなさそうに思えて来て、旧細河村村長の憂いがわがものになる。
(東正面)水害紀念碑 (南側面)明治三十一年九月建之 (北側面)能勢之為地嶂嶺稠畳渓水貫流民耕種其間村而居者九・・(中略)・・近年諸山濫伐大行人恐蒙其禍明治二十九年八月三十一日大雨至九月一日諸山皆崩沸泉奔迸衆渓暴漲俄頃之間九村没在水底・・(中略)・・死傷者二十・・(中略)・・細河村長南佐兵衛止止呂美村長川上茂・・(中略)・・且念此人之労欲勒石以於細河村鼓滝以告以後人憲応其請乃援筆記之 明治三十一年四月十三日 大阪山本憲撰竝書
●080429 川西能勢口駅から山手に少し登ると、古刹満願寺がある。ここには金太郎の墓があって、毎年5月5日には「金時まつり」が催される。金太郎こと坂田金時(956?-1012?)は、源頼光(948-1021)の四天王の一人。頼光の父、源満仲(912?-997)は現在の多田神社の地に本拠を定めた源氏の祖。多田神社から満願寺までハイキング道が通じている地理で、金太郎がここに葬られていて、不自然ではない(ただし、頼光没後に金太郎は足柄山に帰り、幼なじみの熊と再会して相撲をとりながら余生を送ったという話もある)。金太郎の墓は文庫の形をしており、観音開きの石扉がある。中にはおそらく「坂田金時公、ご幼少のみぎりのしゃれこうべ」が安置されているのであろう。
●080421 川崎豆腐店のはす向かいにはヱサカヤという作業服店がある。ゴム長靴や自動車修理工のツナギなどを売る、何でもない町の雑貨屋である。しかし、ここはなんと「創業以来320年」と店先のテント庇に書かれている。ただし、創業のころ何を売っていたのか定かではない。当時からゴム長ではあるまい。機会を見つけて地下足袋でも求めに入り、店主にきいておこう。その隣は「播州吉川刃物店」である。この店も古そうだ。ただし、池田は摂州だから、播州所在地の表示ではなく、農具として名高い播州鎌を商う店、の意味だろう。とすると、ヱサカヤも蓑など農作業服を商っていたのかもしれない。
PS ヱサカヤにさっそく寄って話をきく。創業当時は江坂(榎坂)の米問屋の支店で、そのうちこの地の地場産業である植木職人の作業着や雨具(蓑だ、足袋だ、私の想像は当たっていた)を扱うようになり、そちらに本業を移して今に至るという。店ではちょうちんも売られている。植木職人の夜間作業用品か。(080423)
●080419 池田は古い町だから、古いお店もたくさんある。中橋の交差点角にある川崎豆腐店は、何でもない町の豆腐屋さんだが、創業は天保七年(1830)。のれんに「創業百余年」とあるけれど、むしろ二百年に近い。今日は季節限定の桜豆腐(¥300)と柚子豆腐(¥120)を求める。前者は、豆乳をにがりではなく葛で固めたお菓子のようなもので、塩味がついており、そのままいただくのがいい。後者は、街道をこの先しばらく行った先にある止々呂美集落産のユズを混ぜ込んだ絹ごし豆腐で、薬味なしの生醤油が合う。他にも変わり豆腐がいろいろある。しかし、一番いいのは、ストレートのただの豆腐。黄味の濃い豆乳に、創業時からの変わらぬ赤穂の天然にがりが「自然の恵み」感たっぷり。
●080413 ガソリンが(政争で一時的に)安くなったので、目的地なくドライブしていると、武田尾温泉に出た。ここには10年ほど前、研究室遠足で、生瀬駅からJR廃線跡を歩いて来たことがあった。武庫川の渓谷が美しい。煉瓦造のトンネルには大正・昭和の時代香がある。案内板によると、ここが福知山線の複線化に伴って廃止になったのは1986年のことだから、10年後と20年後に来たことになる。前回はマニアだけが歩いていて、自分たちの前後に他の人の姿を見なかったが、今日は家族連れでごった返している。10年でずいぶんメジャー化した。
●080401 阪大吹田キャンパスの西側外周をなす府道120号線は、昔の小野原街道である。JR東海道本線岸辺駅近くの山田市場を始点とし、旧中環とほぼ平行に山田川沿いを北上する。ここには白壁とくねくね松のお屋敷が残っていて、時代劇のセットのようだ。やがて現中環のガード前に出る。ここを往古「三つ辻」といった。「左をか町、右かちを寺」と彫った道標が現存する。その左へ行くモノレール山田駅前の道が旧山田街道。右の小野原街道は、ガードをくぐってコーナン前の隘路に出る。万博公園西の変形五叉路を直進すると、消防署に突き当たる。
右に折れて阪大に沿い、街道はつづく。今、サクラとレンギョウ、ユキヤナギが真っ盛り、歩道の真ん中から生え出し、ひときわ高く聳えるカラマツの樹形は美しい。池(水遠池)も、夏はアオミドロで見苦しいのに、今は澄んでのどかである。あとは国道171号線小野原交差点まで道なりに。その終点直前、サークルK前で直交する道が、旧西国街道だ。ここにも時代劇ロケ向きの、焼杉を壁板にした大きな旧家が並んでいる。今は狭いが、かつては大道で、ここを大名行列が「下にぃ下にぃ」と行き交っていたわけだ。山田市場から小野原まで、約6kmの平坦路、春の散歩にちょうどよかろう。
このまま北上すれば、粟生間谷で勝尾寺川に出、左折して川に沿って進むと勝尾寺に至る。
●080301 略語その3。石橋阪大坂下から国道を南に100mほど、○井ER社の社員寮がある。ERとは何か。緊急救命室か。ジョージ・クルーニーみたいなイケメン小児科医がいるのか。違う。エンジニアリングだと。えっ、それならEngかEGじゃないか、と思うが、待てよ、これには社長さんの思い入れがある。Engineering
ではなく、Engineer Ringなのだ。エンジニアの輪。この寮に団結あれ、和あれ。円陣(エンジン)組んでエイエイオー。
●080224 略語その2。中環の蛍池で阪急線路を越える高架部分は、Hotarugaike
Va. と表示されている。ん? Va? 蛍池ってバージニア州だったの? 辞書を引いても出ていない。米国でしばらく暮らした経験のある人なら、あるいは分かるかもしれない。viaduct(陸橋)である。しかし、電子辞書によればレベル9で、ふつうの日本人は絶対に知らない語だ。省略したって大して短くならないのだから、どうしても英語表示したいならスペルアウトせよ。
●080210 略語その1。阪大のある吹田市・豊中市や、わが家のある猪名川町や能勢町を含む地域を「北摂」という。この「摂」とは、もちろん「摂津国」の省略形である。しかし、摂津国とは「津を摂る国」つまり「港を管理する地域」という意味だから、省略するなら「津」ではないか? ちょうど「大阪」を省略するのに「大」とはせず「阪」とし、「大阪大学」を「大大」とはせず「阪大」とするように。
●080120 石橋に住んでいたわけでもないのに、なんでそんな「トンドバ」の位置まで特定できるのか、というと、石橋阪大下を南に次の信号(石橋三丁目)を右折して10m先に現存する「辻の地蔵堂」の案内板に、地図入りでそう説明してあるからである。この案内板には、阪急の踏切を渡った先に「辻の弁天」が現存し、その隣に「ゴーグラ」なる施設もある(あった)と書いてある。なんだそれは。ギリシャの集会所か。それはアゴラだ。そこで「辻の弁天」を探すと、すぐに見つかった。駐車場の一角に金網に囲まれて、今にも朽ち果てそうなお堂があった。そしてその隣に、これも今にも崩れそうな「精米倉庫」があった。ゴーグラとは「郷蔵」で地域の備蓄倉庫ということらしい。なお「辻」というのは、もちろん、西国街道と能勢街道の交差点、つまり現在の阪急電車西国街道踏切のことである。
●080115 1月15日を小正月という。かつては、前日の夜またはこの日の朝、集落ごとに門松や松飾りを柱状に積み上げて焼き、正月に勧請した神様を天に帰す「とんど焼き」または「左義長」とよぶ大焚き火をした。その場所を「トンドバ」という(神社などで、今でも観光イベントとしてやっているところはある)。石橋村では、現在の石橋南小学校前の小公園(石橋前池公園)からなかよしこども園にかけての一角がそれで、戦前(どころか昭和40年頃)までは実際にここでとんど焼きをしていたという。その頃は石橋南小学校はまだ建っておらず、大きな溜め池(前池、別称カルピス池)だったから、大きな火柱が池と木立に映える光景が、阪急電車からも石橋駅からも望めたはずである。
●080107 吹田キャンパスから豊中キャンパスに戻る最短ルートは、歯学部門を出て左折・左折、コーナン山田店前の隘路を通り、ヤマト運輸吹田山田センター前を右折して中環に上る道だが、ここで右折せずにそのまま600mほど南下すると、右手に山田西第二公園がある。これが、お笑い「麒麟」の田村が中学2年生のころホームレス生活をしたという「まきふん公園」である。今日仕事帰りに寄ってみると、あるある、かのうんこ型滑り台が。Tシャツを干したら鉄錆でボーダー柄になったという鉄棒は、今はステンレスで、Tシャツ干しに最適だ。今、ここは一種の人気スポットになっているらしい。今日も三重ナンバーの車が路駐しており、「ごった返す」は大げさにしても、結構人が来て写真なんか撮っている。新たな郷土史スポットの誕生である。
●080104 正月休みが明け、町をゴミ収集車が走り回っている。ゴミ収集車には、ShinMaywaのステッカーが貼ってある。このステッカーは、大型箱形ダンプ車や生コン車にもしばしば見る。「特別仕様」の表示だと思っている方もおられようが、これは、この郷土史ブログにも何度か登場した、新明和工業株式会社の製品だという表示である。新明和工業の前身は川西航空機製作所。戦時中、名戦闘機「紫電改」や「二式大艇」を生み出したハイテク軍事企業である。「川西」というのは創業者の姓で、川西市と直接の関係はないが、会社や工場は宝塚にあり、両市とも戦後の市制施行までは、わが猪名川町と同じ川辺郡の一部だったから、わが郷土産業といってよかろう。
紫電改といえば、「空戦フラップ」と「層流翼」という画期的技術で有名だ(昔、マンガ「紫電改のタカ」で読んで知っただけだけど)。空戦フラップとは、ふつう離着陸時に使う主翼後端の可動部を、飛行中にも使って空戦性能を高めようという装置のことで、それまで歴戦の熟練飛行士にしかできなかった高等操縦技術を、自動化によって未熟練飛行士にも使えるようにしたものだ。戦争後半までに熟練飛行士がみな戦死してしまったために編み出した悲しい技術だが(層流翼とは、空戦時の失速を防ぐ高揚力設計の翼型のことで、必要の源は同じである)、コンピュータのない当時のこと、圧力計と連動させた器械的制御のみでこれを実現した技術力は、世界一といって過言ではなかった。
その世界一の器械技術が、今、ゴミ収集車に結集されているのである。見よ、レバー一つで生ゴミを噛み砕いて圧縮し、レバー一つで蓋を密閉し、昔のゴミ車が通った後に必ず残した厨芥汁の悪臭を、今全く残さずに去ってゆく、この超絶技術を。新明和のゴミ車と運転のオッチャンには、紫電改と滝兵曹長の雄姿が重なって見えるではないか。
| 2008年1月以前の記事は、だいぶ古くなったので消去しました。必要の節は直接お問い合わせ下さい。090401
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